生まれ変わりは本当にあった!

これは、鈴木秀子さんが訳した、死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間という書籍に載っている、アメリカ人女性ベティー・イーディーさんの本当にあった体験談です。

娘はあの時の光り輝く少女だった

外科手術で一度死亡した女性が見たもの

ベティーさんは、31歳の時に外科手術後の出血に気づかれずに放置され、一度死亡していると判断されました。その後の蘇生処置で生還しましたが、彼女はその間に臨死体験をされています。

彼女は、死んで間もなくは自分の遺体の近くに居て、自分の体を眺めたりしています。そこに、あの世からの使者、三人の修道士が彼女の前に現れます。三人の修道士は彼女の古くからの友人で、彼女の案内役を務めています。

その後、巨大なエネルギーの渦のトンネルをくぐり抜けて、光の存在に出会います。彼女はイエス・キリストだったと書いています。(彼女は一時期キリスト教の寄宿学校で育ち、その後もキリスト教の教会に通っていたそうです。)そこでは、知りたいことが何でも分かり、光は叡智だったと表現されています。

その他にも、美しい庭園や仲間たち、親友にも巡り会います。ここが本当のふるさとで、この世には愛する夫や子供たちがいたとしても、帰りたくないと本気で思うような場所だったそうです。しかし、イエス様にこの世で果たすべき使命を教えられ、彼女は自らこの世に帰る事を決断します。

彼女は自分の重たく冷たい遺体に戻ります。しばらくして、彼女の夫がやってきますが、彼女の霊はしばらく2つの世界を出たり入ったりしています。医師や看護師がただならぬ緊張感でつきっきりで処置をしていました。

部屋に現れた光り輝く少女

彼女が2つの世界を行き来していた時、2~3歳の女の子が病室に訪れます。少女の身体からは金色に光り輝く後光がさしていて、歩いたところが明るくなりました。彼女の夫にはその少女の姿は見えなかったようです。少女は彼女の夫の方に近づきました。

少女はジョー(ベティーさんの夫)のところに行くと、その靴のつま先に乗っかりました。バレリーナがするように、片足でバランスをとりながら空いた方のうしろ足をうしろに蹴り上げ、上体を前傾させると指先がジョーのポケットに届きます。わたしはこの動作にみとれていました。


引用 ;死んで私が体験したこと 著者:ベティー・イーディー 訳:鈴木秀子

引き取った赤ちゃん

手術の日から6年経過したある日、ベティーさんのところに妹さんを通じて、引き取り手のない赤ちゃんを数ヶ月間預かってもらえないかという話が持ち込まれます。

家族の協力も得られ、ベティーさんの元に赤ちゃんが連れて来られました。10ヶ月間、彼女のもとで過ごした赤ちゃんは、とても可愛がられ家族の一員になりました。

そこで、引き取り手の家族が見つかります。悲しみにくれるベティーさんと赤ちゃんの別れがやってきます。別れの時、引き離された赤ちゃんは激しく泣きました。

3ヶ月経った頃、ベティーさんは電話で赤ちゃんが入院したという知らせを受けます。赤ちゃんは新しい家族になつけず、いつも泣いていたそうです。泣き声にかんしゃくを起こした夫婦が、酔っ払った勢いで赤ちゃんを殴り、階段から突き落としてしまったそうです。

ベティーさんは、すぐに赤ちゃんを引き取りにいきます。そして、必要な手続きを済ませ、赤ちゃんを正式に家族の一員として迎えました。赤ちゃんは、心に傷を負っていたため、ベティーさんが近くにいないと泣いてしまう日々が続きます。

娘が2歳半になった頃

赤ちゃんは成長し、2歳半になる頃には傷も癒え、家中でいちばんのお茶目な人気者になります。ある日の午後、ベティーさんの夫のもとに2歳半になった女の子が走っていきました。そして、

ジョー(お父さん)の靴のつま先の上にちょこんと乗ると、片足を後ろに蹴り上げて、ちょうどバレリーナのようにバランスをとりながらジョーのズボンのポケットに指先をすべりこませました。


引用 ;死んで私が体験したこと 著者:ベティー・イーディー 訳:鈴木秀子

霊の存在があるということの直感的な理解

仕草って、その人特有のものだと思います。まず体格が違うし、歩き方1つとっても、みんな違います。

好きな人の事って、遠くに居ても見分けられませんか?

例えば運動会。遠くにいる自分の子ども、あるいは憧れの人。みんなと同じ体操服を着ていても、あ、あの体格、あの歩き方、いた、いた!!って。

特に、ベティーさんが覚えていたのは、特徴的な動作だったんですよね。

ジョー(お父さん)靴のつま先の上にちょこんと乗ると、片足を後ろに蹴り上げて、ちょうどバレリーナのようにバランスをとりながらジョーのズボンのポケットに指先をすべりこませました。

引用 ;死んで私が体験したこと 著者:ベティー・イーディー 訳:鈴木秀子

なんて誰もがやる動作じゃないと思います。少なくともうちの娘はやらない。

まるで少女が、”自分の事を覚えていてねっ”て思っているみたいに、特徴的な仕草をみせているかのように感じて、読んだ瞬間に胸がドキっとしました。そして、これは本当の事に違いないと直感的に思いました。

参考文献:死んで私が体験したこと 著者:ベティー・イーディー 訳:鈴木秀子

死を知ることは生きる意味を知ること

死を知ることは、生きる意味を知ること

死って、普段はなんとなく避けたいとか、怖いとか思われるものですよね。

けれど、こういう臨死体験を知ると怖さが減ったり、生きることの意味を考えるきっかけになったりするんじゃないかと思うんです。

死んだら何もなくなって、終わりって思ったら、なんとなく楽して適当に楽しく生きればいいやってなっちゃう気がします。

嫌なことをしなきゃならない意味とか、壁にぶち当たる意味とか、突き詰めたら何のために生きてるの?ってなりませんか。

人生って大変な事が多いです。どこにいて、何をしていても悩み事って尽きない。何かしら出てきます。幸せな時はその時で、いつまでこの幸せが続くのかしら?とか。笑

人生に起こる出来事って、何かしらの意味や意図があって起こるとも言われています。生まれる前に、自分でチャレンジする課題を選ぶと。

先ほどの本の中で、臨死体験中に出会ったイエス・キリストは、ベティーさんに「私たちがこの世に生かされているのは、この世で生を受けたすべての人を愛するためだったのです。」と伝えられたそうです。

「愛すること」について知るためには、そうでない物も知る必要がある。だから、あえて辛いことを体験することを選ぶ。また、そんな中で自分が自分自身や他者に対して親切にできるかなど、課題を背負って生まれてくるのかもしれません。

生きている日々は大変だけれど、いつか帰る”本当のふるさと”があるのなら、胸を張って笑顔で帰れるように、一日一日を大切に過ごしたいなと思います。

生きている時間は、ひとりひとりに与えられた、何よりも貴重な財産です。

ひとりひとりに、見守ってくれる存在がいる

また、臨死体験の話が勇気を与えてくれるのは、私達にはそれぞれに見守ってくれる存在がいると教えてくれるからです。

「見えないもの、感じられないもの=存在しない」と考える人も多いですが、それこそ浅い考えです。自分が色眼鏡で物を見ていることに気づいていません。

体には視覚、聴覚、味覚、嗅覚、皮膚や関節の感覚器官がありますが、それで検知できないものは存在しないことになってしまいます。

広い宇宙には、私たち人間に知りえない事の方が沢山あるでしょう。体には限界があります。言葉を通しての理解にも限界があります。

ですから、神の存在とか、生まれ変わりなどは、信じないかの世界になってしまいます。もちろん、確かめようがないことですし、信じようが信じまいが個人の自由です。

私は、見守ってくれる存在がいるって思った方が、幸せな気持ちになるのでそう信じています。

以下は鈴木秀子さんの書籍を参考に書いた記事です。

9つの性格、科学的根拠のある性格分類

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする