一瞬一瞬の想いを見つめる

こんにちは、hanaです。

突然ですが、

今、どんな気持ちですか?

どんなに忙しい時でも、

できる限り自分のしていることに意識的でいる。

それは、瞑想です。

何かを考える時、

何かに注意を向けていなければならない時、

日常には様々な瞬間があって、

何かしらを感じたりしながら過ごしています。

そして、自分の時間の使い方や

過ごし方がどのようなものだったのかということも

ふとよぎったりします。

「なんと有意義な時間だったのだろう」

と感じることもあります。

何かに注意を持っていかれることもあります。

例えば、面白い動画を見ていると、

そこに注意が引き込まれていることがあります。

そのことに、気づいていることもあります。

気づいている時と気づいていない時があって、

気づいている時は、意識的に過ごしている時です。

「今、何をするか」ということを

選択して過ごしている時です。

こういう時間が日常で増えていくことが、

「意識的に生きる」ということにつながり、

ティクナットハンの言う、

マインドフルネス瞑想のように、

日常生活そのものが瞑想になっていく

ことなのだろうと思います。

それはまた、八正道の

正見、正思、正語、正業、正命、

そして正精進という部分とも重なり、

生き方そのものが瞑想になっていくための

智慧であり技術なのだろうと感じています。

それを完璧にするというのは、

普通の人間にとってはとても難しくて、

独り暮らしならまだしも、

家族がいる中では、

自分の思い通りにできることとできないことがあり、

結局は、「できる範囲で」おこなうことになります。

正語を・・・と思っても、

子供を叱る時に、綺麗な言葉だけでは

言うことを聞かないです。

迫力ないですもの。

人の心は、理性では動かない。

それは、頭だけの理解で、本当の理解ではないから。

結局、感情が動かないと、

本当の理解につなげることが難しい。

けれども、「最低だよ!」という言葉であっても、

その根底にある気持ちには、

「相手を想う気持ちを込めて発する。」

というところで、折り合いをつける。とかですね。

けれども、心がけというのは

完璧に遂行できなくても、

それを胸に留めておくだけでも

自分にとって良い影響をもたらしてくれる

と感じられます。

座って目を閉じるだけが瞑想ではなくて、

生活の全てに瞑想は存在しています。

私は、目を閉じる瞑想は控えていましたが、

この日常生活の中の瞑想は、

切り替えていませんでした。

なので、誰かの話を聞くとか、

必要な時には思考するけれど、

自分を責める言葉が頭に流れてきた時や

ダメ出しなどは、その瞬間に気づきます。

「あ、ダメ出し」これがラベリング。

気づいた瞬間に

有益なものか無益なものかを判断して、

考える必要があれば考えるし、

時間の無駄だと感じたらすぐに手放します。

基本的には、自分を責めないですが、

先日の子育ての記事のように、

「ああ、甘かったな。」と、

自分を振り返って反省することはあります。

けれども、それ以上責めても意味がないし、

過去がダメだったなら

今この瞬間から切り替えれば良いだけ。

という、非常にシンプルな感じです。

このような状態になってからは、

長い時間落ち込むということがなくなりました。

もしかしたら、

すごく楽観的な人間に見えるかもしれませんが、

もともと昔からそうだったわけではないです。

ここは、変化した部分だと感じています。

プランを考える時に、

「どうしようかな」と悩むことはありますが、

基本的に考える必要のある悩みです。

解決策を探るとか、そういう場合です。

ですので、一瞬一瞬を意識的に生きるというのは、

ストレスを管理するのにとても有効で、

落ち込みがちな人には、

とてもお勧めできる技術だなと感じています。

昔の私のように、

余計な事を考えて堂々巡りしている人は

きっと、たくさんいるので、

このスキルが身に着いたら、とても楽になると思います。

良かったら、言霊瞑想をしてみてくださいね。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

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