自分の中の本質に宿る癒しの力

今日はちょっと小難しい話を・・・

って、嬉しくないですね。笑

ひょっとしたら頭で理解したいタイプの人には

意外と面白いかも・・・?

それでは、どうぞ!

本質とは・・?

グルジェフの本に記載されている概念に

複数の私というものがあります。

一人の人間の中に複数のイワンと

複数のニコライがいる。

常に同一ではなく内なる統制を欠いているのだと。

そして、エニアグラムで説明される性格にも

本質である魂の気質の外側に、

狭義の性格、習慣的性格、役割的性格というように

層を成して気質があるとされています。

また、魂は、外側にある心に覆われるように

存在すると言われます。

ところで今日の文章、

できるだけソフトクリームにしたいのだけど、

なんか製氷機の氷みたいになりそうな内容なのよね。

(・・・独り言なのでお気になさらず)

グルジェフの言葉を借りるとですね、

通常、私達の行動は機械的な反応により

行われていると言われています。

そのことは、瞑想により、

「今ここ」にあることが続けられると、

それが反応であることが

体感として理解できちゃったりするのです。

(参考までに二時間瞑想の記録を置いておきます。)

それで、機械的というのは、

これまでの習慣化された行動パターンや思考パターン、

社会的に望まれる適切な反応、

自己を守る防御的な反応、

感情的な反応などを見ていくと

「なるほどー」と言う感じがします。

これらの中で、さらに、

本質とは何かを探ってみましょうか。

グルジェフは、こんな風に述べてます。

自分が本当に二人の人間から成っていることを自覚しなければならないのだ。

一人は、自分では<私>と呼び、他人は<ウスペンスキー><ザハロフ><ペトロフ>と呼んでいる人間だ。

もう一人は真の彼、真の<私>だが、それはほんの一瞬しか現れない。

だからそれを堅固で永続的なものにしようと思えば、長い長い努力がいるのだ。

自分を一人と考えている限りは、一歩たりとも進むことはできない。

自己修練は、自分の中に二人の人間を感じたときから始まるのだ。

そのうちの一人は受動的で、せいぜい自分に起こることを記録し観察することくらいしかできない。

自分を<私>と呼んでいるもう一人は能動的で、第一人称で自分を語るが、実際は<ウスペンスキー><ザハロフ><ペトロフ>にすぎない。

これは人間がもちうる第一の認識だ。

こうして正しく思考できるようになればすぐに、自分は完全に<ウスペンスキー><ザハロフ><ペトロフ>の支配下にいることが分かる。

何を計画しようと、また何をやったり言ったりしようとも、それを実行するのは<彼>や<私>ではなく、彼は<ウスペンスキー><ザハロフ><ペトロフ>なのだ。

そしてもちろん彼らはそれを<私>のやり方ではなく、彼らのやり方で、彼ら流の意味の色づけをしてやるのであり、しかも多くの場合、その色づけは<私>がやりたかったことを完全に変えてしまうのだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p238より

観測者(見る人)と非観測者(見られる人)

これって、瞑想で言うところの

観測者と非観測者とも言えるなと思うのですが、

非観測者は自分の本質でない部分で、

観測者が本質。

グルジェフの言葉だとすごーく長いので、

hanaの勝手な切り口でお話しさせてもらうと、

観測者で居続けることは

突然100mをつま先立ちで歩けって

言われるくらい至難の業で

非観測者との自己同一化から逃れ、

分離することが第一段階なんですって。

これは、瞑想の中で行われる

内的な作業なのですが、

この観測者と非観測者の分離

つまり、見る人と見られる人は

別物だよって認識されると

非観測者(見られる人)として普段反応していて、

機械的な状態にあり、

観測者(見る人、本質)は

ただ見ているだけなんだって理解できる。

感情的な反応も、怒りだとか悲しみだとか

身体で感じられるものは、ただの反応であって、

観測者である本質は

傷つくこともなく見ているだけなんだなーと

距離を保ちながら見つめることができる。

本質は、五感を通して

ただ、外界あるいは内面を眺めてる。

そして、本質(見る人)であり続けることが

グルジェフの表現する(誠実さ)だとすると、

本質であることの困難さがちょっぴり見えてくる。

物事をあるがままに見つめる。

ありのままの自分を

フィルターなしに眺めると言うのは、

時に残虐なほどの真実を見せる。

傷つきますよ。

ダメさを突きつけられたりするの。

だけれど、自分の見たくない側面、

感じたくなくて言い訳したくなること、

それらに目を瞑ることは、

内的発展を妨げるのですって。

闇を意識化しないと癒せないのですよね。。

フィルターは時に

良心を感じないで済むようにする。

ただ、ほとんどが自動的に起きている反応で、

あなたと接する誰かもまた

同じシステムで生きていることを考えると、

全ては起こるべくして起こっているようなことかもしれない。

決められたストーリーなのか。創造するものなのか。

またまた、書籍からの引用になります。

しかしもちろん眠っている人々は、自分は目標を持っており、どこかに向かって進んでいると言うだろう。

自分は何の目標も持っておらず、どこへも向かっていないという事実の認識こそが、覚醒に近づいていることの、また覚醒が本当に可能になりつつあることの最初の徴候なのだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p257より

グルジェフの言い方だとさ、

私達には何の目標もなくて、

どこにも向かってないって。

グルジェフのおっちゃんさ、

相変わらず辛辣で容赦ない表現だよね・・・。

でもさ、言い方を変えてみると

全てが空だって言うのと

同じことかもしれないね。

所詮、幻ならそんなに

深刻になる必要もないのかもね・・?

・・長くなりましたが、

つまり私達は日々様々なことを経験していますが、

お互いに反応し合っているだけという、

とてもシンプルな事実があって、

ええ、そりゃあもう、RPGみたいなもので。

最初からある程度のストーリー決まってて

ゴールも設定されてますみたいな。

(・・・ん?そうなの??)

機械的に生きるとそんな感じなのかもね。

長年連れ添った夫婦が聞く前に

答えを予測できるようなものかしら。

おっちゃんは、本質の自分を生きることの

困難さを伝えてくれてます。

(・・おっちゃんって、定着しちゃったの?)

いや、なんとなく冷酷な印象を払拭して

親しみやすくする努力をしてみたくてね・・。

(なんのために・・・?)笑

瞑想をしていて観測者視点の時は、

ただ見ているのみ。

そこから創造するとかできるのかな・・?

それが、本質の私を生きることなのかも。

観測者って、私の感覚では、

静かで温かい感じがするんですよね。

そして、本質は外側で反応している自分とは別で、

傷つくことはない。

ゲームでマリオの役をしてたとして

マリオが敵にやっつけられても

プレイヤーの自分は無傷みたいな感じで。

本質は次元が違うとこにいるのかもね。

そこにつながっていると安心感が感じられたりする。

安定している感じ。

本質は、現実の自分よりも純粋なのかも。

瞑想を通して、

観測者であり続ける修行をすると、

あなたにも安心感の土台となる、

変わらない本質に触れることができますよ。

ただし、続けたらね!って条件つきです。

自己の癒しや変容は、

ここに触れることではじまる。

あなたには自分を癒す力があります。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございます。