こんにちは、hanaです。
お元気ですか?
うちでは、風邪がひと段落して
落ち着いたなーと思っていたのですが、
今度は旦那がコロナになって・・・。
もう、絶対に移りたくない・・!!
><;
とりあえず、隔離しとこう。笑
というわけで、(?)
今日は、意識の向く方向と運動発達について
というタイトルで書いてみたいと思います。
なぜか?
それは、グルジェフの書籍にあったのですが
思考と感情と姿勢や動作は別ものとして区切れるものではなく、
相互に関連しているとのこと。
このことを掘り下げていくことは、
感情を切り替える際の
ヒントにつながりそうだなと感じました。
姿勢や動作が感情や思考と
相互にリンクしているというのは
割とイメージしやすいことでもあります。
グルジェフは、
機械人間から抜け出そうとする際に、
意識的に思考を切り替えたり
感情を切り替えようとしても
困難であると述べていて、
思考、感情、本能という3つが
相互に関連している中で
意識的に変化をもたらすためには、
思考という1つを切り替えるのみでなく
3つの連続を断つ必要が生じるようです。
(難しそー・・・)
また、その作業は1人では
困難だとも述べています・・。
完璧を目指そうとすれば、
そうなのかもしれませんが、
知らないよりはいいかなと思っています。
思考を切り替えたとしても
感情の切り替えがうまくいかない理由は、
動作がそれに伴わないからという
側面があるのだとか。
例えば、何かの失敗をしてしまい、
悲しみに浸りながら、そのことについて
繰り返し考えてしまったとします。
気を逸らそうとして
思考を別のことに切り替えたとしても、
姿勢が三角座り(膝を抱いてうずくまる姿勢)をしていて、
その姿勢から影響を受けて
また悲しみの感情にもっていかれるといった具合です。
無意識のうちに、
悲しみを感じやすい姿勢をしていた・・。
表情や姿勢、動作自体が感情と連結しているので、
思考だけを切り替えても動きが伴わなければ、
元の感情に引き戻されてしまう。
そのようなことが起こるとグルジェフは述べています。
うん。なんか納得です。
仁王立ちしながら
悲しむ人とかいませんよね。笑
試しに、悲しみを感じた時に、
仁王立ちをしてみてはいかがでしょうか。
違和感を感じると同時に、
何か感情にも変化を感じて悲しみを切り替える
きっかけになるかもしれません。
表情もそうですよね。
悲しいけど笑っていたら
いつの間にか元気になっていたとか。
形を変えることでの切り替え。
私たちは通常、
自己矛盾に対して気づかないように、
グルジェフのいうところの
〈緩衝器〉で見えなくしています。
本当は、後ろめたい感情があっても、
思考で合理化して辻褄を合わせようとしたり。
のような感じで。
思考と感情と動作の連結を
意識的に切り離すことで
気持ちを切り替えやすくしたり
思考と姿勢や感情が一致していなければ、
本音が別のところにあると気づく
きっかけになるかもしれません。
そうですね。。
例えば、口から出る言葉(思考)では
「怒ってない」と言っていても、
両手の拳に力が込められていたら、
そうは言っても、
本音はやっぱり怒ってるんだな、とか。
ある意味、気づきを意識的に
得やすくする方法とも言うことができ、
緩衝器を取り外す
きっかけになるかもしれません。
これって、なかなか凄いことですよね。
このように考えると、
この相互関係を理解していく必要がありそうです。
どのようにして、
感情と動作は結びついたのでしょうか。
感情と動作の結びつきを運動発達から考える
姿勢や動作というものの多くは
無意識のうちに制御されています。
運動の意図は意識的だったとしても
どのように動かすかは自動的です。
例えば、
「郵便局に行こう」という意図があって
それは感情や思考の結果として
意識的に決められます。
ですが、実際に行動する場面では、
歩く時にいちいち
股関節をこの角度で曲げて、
足部を前方に移動させて、
踵を地面について、、
とか細かく考えないですよね。
日常で行われる動作のほとんどは、
すでにパターン化された動きの中で
自動的に制御されています。
私達は生まれた時、首も座らない、
ふにゃふにゃの状態で誕生します。
新生児を抱っこすると、
しっかりと支えていなければ、
壊れてしまいそうなくらい柔らかいです。
そんな状態から、
首が座り、寝返りができるようになり、
お座りができ、ハイハイをして、
つかまり立ちができて、歩けるようになる。
赤ちゃんはお母さんのお乳を飲む必要があり、
そちらに頭を向けて固定しなければうまく飲めない。
そのために、頭や首を動かそうとします。
たまたま目に入った物や手に触れたもの、
あるいは自分の手を
口に入れて対象を確認しようとします。
そのために必要な機能なので、
はじめに首が座る。
このような形で、
運動発達には3つの原則があって
頭側から尾側
中枢から末梢
粗大から微細
という基本的な流れが存在しています。
この順番で発達していく。
そして、動作には必ず目的があり
その目的は感情と密接に繋がっている。
行動の動機ですね。
お母さんがいないと不安だから
お母さんを探して視線を動かす。
あるいは、愛着があるから見つめていたい。
こんな風に感情と動作は繋がっています。
視線を向けるのは、
そこに意識が向いている時。
顔が向く方向は意識が向いている方向で、
動作の始まりは頭側から始まる。
(頭側から尾側)
体の向きを変える動作が
それに連続するように徐々に発達し、
細かい手足の操作はそれに続く。
(中枢から末梢、粗大から微細)
意識が向く方向と動作の始まりは、
運動の発達段階と
リンクしているかのようです。
最も純粋な存在である赤ちゃんの
発達過程を知ることで
意識の向く方向に体が動くことが分かり、
動機(感情)と運動には
関連があることが見えてきます。
そして、実際に運動はパターン化された
レパートリーの集合体のような形で
神経系に運動学習を通して記憶されています。
感情と動作を切り離すヒントになる部分ですね。
このパターン化された動きを
わざと切り離すような
自然の中で普通は行わないような
動きを取り入れたダンスが、
グルジェフがそのワークの中で行っていた
神聖舞踏(ダンス)に組み込まれていたようです。
例えば、頭部・腕・手・脚のそれぞれが
別々な拍手で動くとか、
両目が頭の向く方向と正反対の方向を
向くというような・・。
(確かに、そんな不自然な動きはしないですね・・・。笑)
信じがたい程に難しくて
集中力を要しそうなダンスですね・・。汗
(やりたくなーい。笑)
これを参考にすると、
ダンスまではしなかったとしても
感情と動作を切り離すには、
パターンを崩すことが有効なのかもしれません。
怒っているけれど体の力を抜くとか、
笑っているけれど直立不動でいるとか、
通常ではやらないような
感情と動作の矛盾をわざと組み込むことで
(ちょっと周りからは
よく分からない人に見えそうではありますが。笑)
気持ちを切り替えたり
囚われていたことに気付くための
きっかけを作れるかもしれません。
そう考えると面白くないですか??
何かの参考になりましたら幸いです。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
お読みくださいまして、ありがとうございます。