過酷な運命の中でも穏やかな光を放つ人

こんにちは、hanaです。

インフルエンザなどが流行ってますね。

大丈夫ですか?

私は今のところ元気です!

が、職場の同僚は、1人また1人と

週替わりで休む人が出ています。

それで、お休みの人の代行に行くのですが

その中に、ALSという進行性疾患の女性の方がいました。

もう、80代の方なのですが

1年くらい前にも代行でお会いした方でした。

確か、1年前には蛇口を自動水栓にしてもらって

自分で使えるようになって助かってるのよ。

というお話をされていたのですが、

今回は、蛇口まで手を伸ばすことが

できなくなってしまって・・と。

電気のスイッチに手が届かないから

頭でスイッチを押してるの。

この前、足を滑らせて転んでしまったのだけど、

手が動かないから肋骨をぶつけて骨折してしまって

という話をされていて。

なんて過酷な状況だろう。

頭で壁のスイッチを押すって痛いですよね・・。

(照明器具をリモコン式にと伝えました)

少しずつ動かなくなっていく体を

意識清明な状態で受け入れていくのは

どんなに辛いことだろう・・

この疾患は、徐々に身体が動かなくなり

最後は呼吸不全になり死を迎える。

その期間は、数年と言われています。

それでも、その方は、

過酷な運命を背負いながらも

とても穏やかに過ごされています。

お話していると、

その優しい話し方と穏やかな顔を見ているだけで

不思議と心が癒されていくようでした。

まるで自分の祖母と話しているかのような

安心感で包むような雰囲気。 

先のことを考えたら

不安や恐怖に苛まれて

暗くなりそうな気がするのに

その方の目は、キラキラと輝いています。

どうして、こんなに穏やかなのだろう。

確か、アメリカの精神科医である

エリザベス・キューブラー・ロス博士の

「死ぬ瞬間」という本に書かれていたのは、

死の受容段階の話でした。

死期を目前にした患者様は、

否認、怒り、取引、抑うつ、受容という

5つの過程を経ることが書かれていました。

この方は、すでに受容の段階に

あるかのように見えるけれど。

そんなことがあり得るのだろうか。

私は、たまに訪れるだけの人なので

本音など分かるはずもないのですが。

その方は、ただ静かに微笑みを浮かべて

自分に起きたできごとをお話ししてくださいました。

ご自身の現状を受け入れていて

拒絶するでもなく

目を逸らすでもなく

日々、動かなくなっていく体と向き合いながら

こういう病気だから、

と穏やかに受け入れている。

そんな風に見えました。

とても静かな穏やかな受容。

ああ、崇高な魂って

こういう方のことを言うのだろうな

と感じました。

人にはその魂の器に見合うだけの試練が訪れる。

過酷な運命でも、それを受け止められる器が

この方には備わっている。

辛い出来事が起こることも

人生にはありますが、

魂の器に見合うだけの試練が

やってくるようになっているから

大変なことが訪れた時には

それだけの器があるということ。

そんな時、こんな風に穏やかに

受け止めることができたら・・・

素晴らしすぎて足元にも及びませんが

ほんの少しでも関わらせて頂けたことに感謝です。

私達は、足りないものに

目を向けがちなところがあるので

そんな時こそ

ただ、健康で普通に動けるという

こんな有り難いことに感謝する気持ちを

思い出してみるといいのかもしれません。

当たり前の中に

たくさんの感謝することがある。

そして、崇高な魂は

過酷な運命の中にあっても

その輝きを放つことができる。

「ただ、ありのままを受け止める。」

これは、単純なようで

とても難しいことでもあります。

それをできた時、

人の器は大きくなっていくのですね。

お会いできたことに感謝です。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございます。