今日は、本当に個人的な呟きです。
個人的に覗いてみたいわ、、って
思ってくださった方限定でお読みください。
自分の考え方や価値観が変化していくと、
今まで心地よかった人間関係が
心地よく感じられなくなったりしていくのは、
きっと、自然な事なのだと思います。
自分の心の片付け方を理解し、
自力で出来るようになっていったことで、
人に愚痴を聞いてもらう必要が
ほとんどなくなったり、
文句を言っているぐらいなら、
解決のための行動を取るということが
自分の自然な振る舞いになっていくと、
愚痴や文句を聞いても、
そんなことしてても、何も解決しない、、
と思って建設的な話にしようとしても、
聞いて欲しいだけの人は、
結局否定するばかりで動こうとしなかったり、
過去の自分も、ただ話を聞いて欲しい。
共感して欲しい。
それだけなの、ということがたくさんあったので。
その気持ちは分かります。
共感は、本当に大切だし、
それがなければ、繋がりを感じることが出来ない事も。
けれど、本気で解決したい悩みを抱えていたり、
行動しなければならないのに、
方法が分からなくて苦しんでいる時は、
それだけで終わっても、
症状を和らげる対症療法をしているにすぎない。
根本を解決するのは、時に苦痛を伴うもので、
本気で相手を想っているからこそ、
厳しい事を言わなければならないこともあると思うのです。
けれども、現実は厳しいもの。
不安に苦しんでいる様子を見て、
本気でどうにかしたいと思っていることを感じ取ったので、
心と向き合う事を伝えても、
拒絶されたり。
悩んでいることに対して、
根本を解決しなければ、
結局変化など起こりえないのに、
そのことが見えているだけに、
もどかしくなってしまいます。
「hanaは変わった。」と、言われます。
私の価値観についてこられる人は、
とても少数派。
それは、自覚しています。
自分と似たような人間が身近にはいない。
けれど、いろいろと分かってしまうと、
もう、分からなかった状態には戻れないのと同じように、
すでに自分が通り過ぎてきた場所に居て、
苦しんでいる人の姿を見ると、
何が原因になっていて、
どうしたら良いかと言うのは、
こちらからは明白だから、
心から助けたい一心でメッセージを送っても、
本人の心の奥底にある恐怖心が邪魔をしている。
そして、通過した人間からは明白なことも、
まだ、これから通過する人間には、
分からなくて当たり前だと言うことも。
恐いものを見せられようとしたら、
拒絶するのは自然なことだし、
本当に恐れていることは、
自分の心の奥に仕舞い込んだ過去の記憶。
それを、拒絶と言う形で、
私に対して投影していることも分かる。
だから、私自身は拒絶されても
その理由まで見えるので傷つかないし、
相手に対して怒りの気持ちも感じない。
ただ、苦しいだろうなと、、
けれど、あまり踏み込み過ぎて、
相手の心に負荷をかけすぎてもいけないので、
ただ、静かに見守るしかない時期もあるのだろうと思ったり。
ティクナットハンの書籍に、
無知や無理解が苦しみの種となっていることは多い。
と書かれています。
そうだろうな、と思います。
人を憎むのではなく、無知や無理解と向き合っていく
必要があるということも。
知ることや理解することで、
恐怖や不安は和らぐ。
それは、決して、
簡単な道のりではないし、
私自身も、完全に乗り越えたかと言うと、
まだまだだと感じることも、大いにあります。
根が深いものは、
本当に完全になくなりきるなんて言う事が
あるのだろうかと思います。
けれど、向き合わないよりは、マシになる。
それは、本当に少しずつの道のりです。
瞑想について聞いたことがないと、
怪しいイメージを持つ人もいるかもしれない。
けれども、知ることで、とても理にかなった、
合理的な脳の管理方法であることが分かると思うのです。
聞くための、心の準備が出来ていれば。
偏見のない心で、話を聞くことができる状態なら。
人間関係は、自分との関係から始まる。
だからこそ、自分の心を見つめなければならない。
不安や恐怖の原因が過去にあるのなら、
記憶に対する受け止め方を変化させる必要がある。
過去に辛すぎる体験をしている人ほど、
外界に対する不信感や不安を感じやすいと言います。
不安の感じ方には、遺伝的な要因もあるようなので、
同じ体験をしても、
同じ気持ちになるとは言えないけれど。
これは、個人的なため息交じりの話になるけれど、
すんなり話が通じる相手は、
本当に数少ない。
ほとんどの人は、
迷いや比較の中で苦しんでいる。
一緒に居て、心安らぐ人は、
本当に少ない。
人間は、もともと孤独なもの。
きっと、元の世界に帰れば、
話の合う人が多くいるような気がするので、
この世界の出来事には、
あまり深刻になっても仕方ないと思っている。
元の世界ってどこ?って聞かれても、
良く分からないとしか答えられないけれど、
なんとなくそんな気がするのです。
聞き流しておいてください。笑
目に見える世界の
狭い価値観に縛られて
身動きが取れなくなっている人が
周囲を見回すと数多くいます。
自分も影響されてしまうことがあるけれど、
そんな世界の中で、
自分の歩きたい道を歩くことは
本当に険しい道を行くことで、
中途半端な覚悟では
歩み切ることが難しい位のことだなと
しみじみ感じます。
ただ黙々と、孤独な道を歩く、、
やはり、人生は修行だなと思います。
今日も、お読みくださいましてありがとうございました。