こんにちは、hanaです。
今日は、難しいテーマを書こうとしています。
果たして、今の段階で書くべきかどうか・・・
正直、悩むのですが、
それでも書きたいと感じるので書かせて頂きます。
少々混乱をきたしやすい内容かと想いますし、
誤解されたり、違うだろーっとなったり、
いろいろと考えは違っている部分かもしれないです。
私が、ここ数年、なんとなくモヤモヤしていた、
何か腑に落ちないと感じていた部分についての
答えみたいなものが、ようやく降ってきたので、
興味のある方にシェアしてみようかと思いました。
かなりコアな、
ある意味神をどうとらえるのかというような
重要な核心部分の内容になりますので、
そんな内容でも構わないよーと言う方向けになります。
それでは、早速書いていきますね。
結論の出ない疑問
何か、大きな視点でものごとについて考える時、
例えば、この地球規模で起きたコロナ騒動についてや、
ワクチンのことについてなど、
「なんで、こんなことが起こるのだろう?」と
考えることがありました。
その時、私たちに危害を加えようとする人たちは「悪」に見えて、
それを正そうとする人たちは「善」に見えました。
そして、そう感じること自体は、とても自然なことでした。
命を奪われようとしたら、身を守る。
大事な人に危害を加えられたら怒る。
それは、生命にとって、
当たり前のことだろうと感じます。
けれど、悪に対して怒ることは、
正義を振りかざすことであり、
自分の考えを押し付けることと見られたり、
いろんな意見があっていいじゃないかという人がいたり、
善悪を決めることはジャッジメントであるとして、
中庸を保つべきだという意見があったり。
どの意見も、それぞれに正解なのだろうし、
理解できるのだけれど、
内側の感覚では、
何か・・しっくりこないんだよなあ・・・
うまく言えないけれど、
歯車がうまくかみ合わないような感じが
残っていました。
これって、どういうこと??
自分の中で整理がつきにくい部分があって、
それでは、善悪の概念は何のためにあるのかということや、
一方で、立場によりその概念が異なることも事実であって、
中庸であることも必要なこと。
整理がついているようで、
何かが腑に落ちない。
そんな感覚がつきまとっていました。
煙に巻かれるような感じでした。
モヤモヤとしたまま答えが出ず、
自分の内面と、この疑問に対して、
対峙する時間が続きました。
けれど、なかなか結論が出ない。
それでもきっと、内側に答えがある。
感覚を信じよう。と。
「外側の誰か」に答えを求めるのではなく、
自分の中で答えを見い出したい。
私の中で、そう感じる大切な疑問でした。
この疑問について考えることは、
「悪」の存在意義や、
この宇宙の真理、そして、創造主の意志といった、
壮大なテーマについて考えることでもありました。
宇宙の真理はとってもクール
宇宙の真理は、般若心経に記されているように、
とてもクールなものだと思います。
宇宙自体は色即是空であり、
空即是色の世界であるということ。
つまり、アルとナシが同時並行で
存在するような不思議な世界。
量子力学の二重スリットの実験のように、
現れる結果は、意識した瞬間に定まるかのような。
そして、それは同時に無でもある。
目に見える世界は幻のようなものということ。
集合意識の中で、
多くの人が同意している世界が現れている。
そんな世界。
綺麗も汚いもなく、増えることもなければ、減ることもない。
アルとナシが意識によって、変化するような不思議な世界で、
ある種の物理法則が存在するように、
宇宙の法則によって、成り立つ世界。
宇宙自体はジャッジメントのない世界で、
ある意味、「なんでもいいよ。」
「思った通りに自由にしていいよ。」という感じで、
私達から見たら、犯罪である
人殺しみたいなことですら、
肯定されてしまうかのような、
善悪の両方が混在した世界。
片側から悪に見える事でも、
反対側から見ると、自分達は善だと思っていたりする。
正義とはそういうものだと、宇宙の真理では伝えている。
善くも悪くもなく、ただ在る。ように見える。
そして、アルとナシすらも
変化しているように見えるだけの幻のようなもの。
生も死もなく、ただの変化という捉え方。
誕生がおめでたいことで、死ぬのが悲しい出来事という
いつの間にか持っている価値観も、
感情を含まない事実のみを
淡々と眺めて俯瞰していくような、
とても、クールな見つめ方が、
宇宙の真理の視点から見た世界観。
私達の創造主の意志を感じ取る
クールな宇宙の真理の視点も、
理解可能なものであり、
真実の姿を現していると感じる一方で、
私たちの内側には感情が備わっています。
瞑想からの気づきでもあるのですが、
生きて欲しい、繁栄して欲しい
そのように生命は創られている。
創造主の意志を感じます。
生存欲求は、全ての生命に組み込まれていて、
その自然な在り方は、
生きることを貫くための仕組みとも感じられます。
樹々は枝を広げ、葉を茂らせ、種を残す。
動物は、餌を食べ、子孫を残す。
これらは、自分達の種を次の世代へ繋げるための営みであり、
生き残ることと繁栄させることを
自然にプログラムされているかのようです。
そして、湧き上がる感情はなんのためにあるのか。
人間の豊かな感情の中には、
生きることを善しとし、
死ぬことを避けようとする性質が
自然の流れとしてあるようです。
怒りや悲しみは、自分を守るためだったり、
気づきを与え、学びを深めるためだったり、
喜びや楽しさは、何が向かうべき方向なのかの
道しるべを示してくれたり。
全体を俯瞰してみると、
最終的には愛に向かうように体の仕組みが
設計されていて、
生き残るのに有利になるのは、愛の方向に向かった時。
その方が繁栄していくようになっている。
仲間を大事にしたり、誰かを愛したりすると
喜びや楽しさといった快い感情が湧き出し、
生存や繁栄には有利になります。
体は、繁栄する方向に導くように
感情が湧きだすようになっています。
傷つけあったり、喧嘩するときは、
怒りや苦しみ、復讐などの不愉快な感情が渦巻き、
破壊につながっていく。
つまり、愛とは逆の方向に行くと、
破滅や死にむかっていくようになっている。
これは、愛を学ぶためのプログラムになっていて、
私たちに愛を学ばせようとする存在により、
意図されて創られたものではないかと感じます。
そうでなければ、こんな見事に生態系が調和した
地球と言う星が存在し得ないと思います。
そこには、私達を創造した、
創造主の意図が感じられます。
宇宙の真理が示す、
感情を挟まないクールさとは裏腹に、
感情を通して、行くべき方向を示し、
導くような仕組みが施された世界に
創造主の意志が現れています。
そのような中にいると、
宇宙の真理と創造主の意図のズレに対して矛盾を感じ、
何が正しいのか、分かりにくくなってしまう。
創造主の意図によりプログラムされていて、
善悪を感じ取り、繁栄の方向に向かうような願いが、
私達に込められているということ。
それは、なんでもありの宇宙とは少し違って見えます。
宇宙は全てを受け入れています。
この表現が適切かは自信が持てませんが、
例えて言うなら、
宇宙は、白いキャンバスみたいなもので、
なんでも好きな事を描いて楽しんでねと言っているかのようです。
そして、そこに絵を描いているのが創造主。
辛い感情を出し切った後に、
温かい愛の感情が内側からあふれ出すのは、
私たちの本質が愛のエネルギーである
創造主の分け御魂により作られているから
なのだと感じます。
何もない宇宙に広がる創造主の意識
何もかもが許された自由な空間で
創造主は全ての生命の経験を基にして
学び続けている。
ひとつ残らず、全ての魂が
創造主の一部であり、
言い換えれば、神の一部であり、
様々な意図で形を変えているが、
もとは一つであり、今も一つである。
同時並行的に、存在している。
いつもすべての存在にとって、
「自分」という存在が、本質的には神であるということ。
そして人生であったり、
世界そのものを創造し続けている。
生きたいという意志は、創造主の意志そのものであり、
また、創造があれば、破壊もある。
その膨大な経験を蓄積した結果が、
最終的には、愛という感情の示す
神の意志の示す方向性に現れているように感じます。
ノージャッジメントは大事だけれど・・
実際によりよい世界に住みたいという感情は、
自然に私たちの中にあふれ出すものです。
そして、正義を振りかざすのが悪とされるのは、
戦いに興じ、むやみに悲惨な世界を繰り広げるとき。
正義というのは、それぞれの立場にあるけれど、
悪いものは悪い、正しいものは正しいのであって、
なんでもありとは違う。
大切な事は、俯瞰する力と
様々な方向から事実を眺めることであって、
その時に、一度感情をリセットして、
中庸であることが求められる。
それは、敵対するように見える存在であっても、
相手の立場に立って考え、理解する努力をすること。
そのような見方でものごとを捉えた時、
明らかに一方が悪い事をしているということは、
現実には存在している。
残念ながら、悪い行動を選択する人はいる。
それは、死と破滅に向かう方向であり、
誰かが傷つき、苦しみを生む方向。
内側の感覚が示す通りなのだと思います。
感情は必ず、意味を伴って現れています。
それは、私たちが愛を学ぶために設計されているからであり、
その方向に沿って進むことが、
宇宙の流れの方向に沿うということでもあるためなのだと思います。
悪の存在すらも、
学びのためにあえて取り入れられている要素であり、
本当は思いやりのある一番尊い存在の神様が、
敢えて、この地に降り立ち、
悪役を引き受けてくれたのかもしれません。
とても、そんな風には思えない位、
酷いことが行われているけれど、
そこまでしなければ、
学べない理由があったのかもしれません。
もし、そうであるならば、
私たちの意識が向上し、
充分に愛についての学びを深められた時、
神様は悪役という大変なお役目を終えて、
元の場所に戻ることができるのかもしれません。
だとすれば、大切な事は学びを深めることで、
そのことにより、世界の争いごとは収束していく。
そして、悪の存在があるからこそ、
本当に大切にしなければならないこととは、
何なのかを学び取ることができます。
だから、何か明らかに間違っている、
おかしいよということが外側で起こっている時には、
ただ、クールに見つめて善も悪もない。と言っているのは、
創造主の意図していることとは
少しずれがあるように感じるのです。
それが、ここ数年、私の感じていた違和感でした。
「何か違うんだよな・・・」
というこの感覚。
これは、本当に大切にしなければならないことから、
ズレていたために出てきたものでした。
ようやく、ここで
「宇宙の真理」と、
「創造主の意図」には違いがあり、
そのために生じている葛藤だったという理解ができました。
私は、自分の考えが
絶対に正しいとか思っているのではありません。
ただ、素直に正直に、
自分の感じた感覚をもとに記している。
それだけです。
大切なのは、中庸でものごとを俯瞰したところから、
理解することに努め、
「何を選択するのか。」ということ。
そして、感情は大切にするけれど、
飲み込まれるのではなく、判断の参考にする。
怒りに任せて争うのではなく、
感情という道しるべの示す方向を見極め、
全体の流れを俯瞰して、
行動の仕方は冷静に検討していく。
やはり、内側の感覚は大事なものを示してくれています。
創造主の意志に基づいて、宇宙は流れている
創造主の意志の流れに沿っているものが時代に現れてくる。
それに沿って生きる方が生きやすい。
意志に逆行するものは淘汰されていく。
星々の位置の変化が示すように、
宇宙にも流れがあって、波があって、
その姿はまるで、
一つの大きな生命体であるかのようです。
そこに沿うように、人の意識も影響されている。
だから、多くの人が正しいと感じる方向は
宇宙の流れる方向を決めている
創造主の意図と自然に重なっていく。
何を選択するかは、自分で選んでいるようで、
大いなる意志の影響を受けているようです。
そう考えると、愛に基づいた方向に、
よりよい世界に宇宙は進化しているのだと感じます。
様々な経験を通して学ぶ結果が愛のようです。
だから、過去よりもより良い世界になっていく。
創造があれば、破壊がある。
そんな世界ですが、宇宙的に見たら
きっと、自然なこと。
善と悪という概念自体、もともと宇宙にはなくて、
広大な空間に現れた創造主の意識が、
自分とは何者なのかを学ぶために創り出された世界であり、
体から発せられる信号を感知して
創造主の示す方向を感じるようになっている。
体は受信機であり、発信機なので、
内側の感覚に集中して感じ取ることで、
大きな流れを察知できるようになっている。
そして、それは、より愛に満ちた世界に向かって、
進んでいることを示しているようです。
正義感や正しいという感覚と宇宙の流れ
外側の世界が悪くなっているように見えても、
そのような世界から、愛をより深く学んでいる。
そのように見ると、善も悪もなく、
無駄な経験は一つもない。
ただ、内側で感じる光の感覚、愛の感覚は
温もりと優しさと安心を感じさせてくれる。
創造主の意図はこのような感覚に基づいているようです。
何でもありの宇宙だけれど、
その中には、大きな意志と流れが存在していて、
私達を導いている。
その流れに沿う事で、ものごとはうまく行く。
善とか悪とか、正しいとか間違っているとか、
そういうことは、争いの種になりやすいものだから、
伝え方がとても難しいけれど、
きっと、正しいがあるとすれば、
それは、宇宙の創造主の意志に沿ったもので
あるのではないかと感じます。
感情に振り回されて、
創造主の意志から外れた行動を取ると、
正しいと思う事でもうまく行かない。
例えば、戦うというのは、
双方が自分が正しいと思っているし、
その結果、悲惨な世界が待ち受けている。
けれど、感情に振り回されず、
創造主の意志、
温もりや優しさや愛の感覚に沿って、
物事を選択し、行動していくとき、
善と悪の壁を乗り越えて、
物事が良い流れに沿って、進んでいくのかもしれません。
感情は、方向性の見極めが難しい事もあります。
迷った時は、ただ、時間をかけて感じることに集中することで、
一時的な怒りなどの感情は消えていく。
そして、消えずに心の奥底の方で
微かに残り続ける感覚の中に、
本当の想いが隠れてたりします。
戦う事よりも大事な事は、本質を見極める事。
悪に見えるものの正体について、
本当の所は何なのかを知ろうとすること。
最もコアな部分について、知ること。
知らなければ、付き合い方も分からない。
最後に残るのは、悪との関係においても、
ただ、学びと感謝なのかもしれない。
悪の存在により、選択の機会を与えられ、
知る機会を得て、学ぶ機会を得られている。
個々の人間レベルではなく、
より大きな存在の意図が介在する中での
出来事として捉える視点を持ちながら、
知り、理解するように努めていく事が
大事なのかもしれません。
最終的には、愛に基づく方向が創造主の意志
この何もない宇宙で創造主が学び続けていることは、
唯一の疑問である、
自分は何者であるか、なのかもしれません。
そして、創造したものを愛し、
より繁栄できる世界を創るには、
どのような在り方が良いのかという
生きる事、存在し続けるための方法を
模索しているのかもしれません。
そして、生きるためや、繁栄するために、
愛は欠かせないもので、
愛に基づく判断が、最終的に創造主の視点から見て、
正しいと言う結論になるのかもしれません。
私は、創造主や神という表現を用いましたが、
一つの比喩であり、
私達よりも高次元に存在する
知的生命体や体を持たない意識体としての存在など、
多くの存在の総称として使用しています。
もちろん、宇宙の根源である存在も含めています。
今日は、私の中でも答えが見つからずにもがき続けてきた、
とても難しいテーマについて話をさせて頂きました。
このテーマは深すぎて、まだ、私自身の中でも
これから先、学びを深めていくテーマになると思います。
こんな難解な話に、
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。