複数の私という概念

こんにちは、hanaです。

グルジェフの述べていた

複数の私という概念のことについて、

どういうことなのだろうと考えていました。

まず、はじめにグルジェフの考え方を見ていきたいと思います。

グルジェフは思考、感情、生理から成る人間を、

御者が一頭立ての貸し馬車を操っている様子になぞらえている。

馬車は肉体、馬は感情、そして着古した上衣に身を包み、

新品の山高帽ーつまり「ロックフェラーのものとそっくりの」帽子ーをかぶり、

ボタン穴に一輪の大きな菊をさした御者が思考というわけである。

他にもう一人、馬車の中には雇い主の乗客がいる。

この乗客がいわゆるそのときの〈私〉である。

引用文献:グルジェフ・ワーク p139、140より

そしてグルジェフは、4種の体について述べています。

第一の体は肉体

第二の体はアストラル体(感覚)

第三の体はメンタル体(精神)

第四の体は神的あるいは因果体(私、意識、意志)

引用文献:グルジェフ・ワーク p140より

人間にこの比喩をあてはめてみれば、

馬車は肉体に、馬はアストラル体に、

御者はメンタル体に相当し、

そして乗客は、あるいは馬車を拾うつもりの

通行人ではなく実際の所有者であり、

馬車を維持し命令を与える主人は、

神的体(ディバイン)に相当する。

普通の人間というのは自動人形のようなものであり、

その行動、欲望、思考は

ことごとく外界からの刺激の所産であり、

それゆえ矛盾した複数の<意志>に

苦しめられている存在である。

制御指令は外界から内界へ届く。

ここでは、高次の諸体がすべて発達したときの

制御指令の流れが逆転されているー

つまり恒久普遍なる〈私〉が精神と情動に服従し、

肉体が思考と感情を従えるというように。

引用文献:グルジェフ・ワーク p143より

グルジェフの思想を基に、自らを振り返る。

それぞれの「私」は、

記憶していることも違うという。

そんなことを聞いたら

精神疾患を思い浮かべてしまったけれども、

日常の中で、よくよく自己観察をしていくと

その場面に応じた自分というのがあって

記憶していたはずのことが思い出せなくなる

という事もあることに気づきました。

それどころか、

仕事中に運転しながら

どこに向かっていたのかを

ど忘れしてしまう自分すら発見して

「ハッ」としました。

仕事モードの「私」が、いつの間にか

違うモードの「私」に切り替わっていて、

自分のしていたことを忘れている・・・。

仕事中の自分と

プライベートの自分は違うし

プライベートでも

子供たちといる時と

友達といる時でも違う

話す内容が変わるのはもちろんだけれど

それに応じて想起される記憶も変わり

覚えていたことが出てこないこともある。

それは、無意識のうちに調整されていて

私ではない私が制御しているようで

まさに、統合されてないと

言えるのかもしれないと感じたのです。

無意識の中で制御している

中枢にいる存在が鍵になっている「私」で

そこと繋がらなければ

成せるものも成せないのかもしれないと思う。

それは、グルジェフの言う、

馬車の乗客の意志(神的体)が

反映されずに走っている状態・・・。

なぜなら、複数の「私」は、

それぞれに違う考え方や価値観を持つこともあり

目指す方向もそれぞれバラバラだったりする。

Aに行きたい私とBに行きたい私。

どちらも「私」には違いないけど

それぞれに違うことを主張していて

出てくる場面で変化してしまったら

統制が取れず方向にバラつきが生じる。

オクターブの法則では、

適切なショックが与えられなければ、

少しずつ当初の意志と

方向性がずれてくると言われている。

現実世界に直線が少ないのもこのためであると。

方向性のズレが生じるのは、

まさに統制の取れていない状態が

作っているのではないかとも・・。

7の法則は、現実世界を表わしていて、

外界の影響が反映されている。

つまり、外側→内側への影響に晒されている。

それは、統制がとれずに、

馬車が馬の意志や御者の考えで

方向を少しずつ変化させながら

円を描くように旋回している。

それは、本来流れるべき

乗客の意志が御者や馬に伝えられる

という流れと逆行している。

つまり、内側→外側の流れに反している。

そんな状態では、

叶うものも叶わないのは当然なのかもしれない。

自分の中の複数の私を統合できるのは

唯一、中枢にいる「私」のみ。

馬車の例えで言うなら、

乗客がしっかりと方向性を伝え、

その方向に進んでいるかを注意深く

見守っていることが必要なのかもしれない。

そこは無自覚に動いているけれど

そここそが魂の居場所で

そこに繋がることが大切なようです。

それ以外の私は

魂(内側)でなく心(外側)の反応に応じて

思考優位の私だったり

感情優位の私だったり

本能優位の私だったり

するのかもしれないし、

それは、場面によっても変化していて

絶えず変化を繰り返すから

どれが本当の私なのかよく分からなくなる。

立ち止まって

思考も感情も本能的な感覚も鎮めて

その時に存在するものに耳を傾けていくこと。

私の本体。

そこが最も最善の道を教えてくれる。

己の道を示すもの。

外れないように耳を傾け続けなければ

すぐに現実に飲み込まれて

舵取りを奪われてしまうから注意が必要なのだと思う。

人格と本質という話にも通じていて

本質を生きる、そこを育てるというときには

立ち止まって

自分の魂の声を確認していく必要がある。

はじめは、外側の喧騒にかき消されて

なかなか聞こえない声。

それでも聞き続ける。

その声は私にしか聞こえないから。

外側に答えを求めたくなる時もあるけれど、

答えがあるのは内側。

思考じゃない。

一時的な感情とも違う。

いつまでも消えないもの。

残るもの・・・。

自分自身の主人になるとは、

こういうことなのかもしれません。

頭で理解するのと、実際に行うのとでは、

大変な乖離がありそうですが。^^;

本質の自分自身に目覚め、

統御することができる状態。

これが、グルジェフのいう覚醒の意味でしょうか。

このまとめ方だと、

よりよく生きることにつながる

現実創造の概念に聞こえますが、

グルジェフは不死についても述べています。

その概念が含まれて来ると、

悟りとの類似性もあるのかなーと。

それは、ここでは扱わないことにします。

不十分ですが、今のところの理解です。

本当にこれが実行できたら、

現実世界を創造的に生きられるのでは、と。^^

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

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