小川さんのコメントの意味をより深く考えられる
テレビを見ていると、よく○○大学教授とか、○○博士とかいう肩書きを目にします。
テレビに呼ばれる位だから、著明な人なんだろうなという位で、意見は参考にしますが、その人の人生まではほとんど考えません。
ただ、哲学ってその人の経験とか、人生観がもろに出る分野だと思うんですよね。番組も人生相談という内容ですし。
そこで講師に呼ばれるってどんな人なんだろうって思ったので調べて、まとめてみました。
世界の哲学者に人生相談の講師、小川仁志さんの人生が波乱万丈だった!

京都大学を卒業し、大手商社に努めるエリートだったのに、3年半で退職してフリーター、そして引きこもり生活に…
幼少期は内向的でいじめられることもあったそうです。また、両親が離婚し、おばあちゃん子。
おばあちゃんは、「なにくそばあさん」という位、「なにくそ」と人生を頑張って来られた方だそうで、その後の小川さんの人生に影響を与える方です。
小学校高学年では、目立ちたがり屋で、中学では不良になりかけた時期もあったそうですが、
勉強は周囲の人に褒められ、やっていると尊敬されるからと頑張っていたそうです。
京都大学に入学できるほどの秀才ですが、大学生活では勉強よりも遊びに、特に合コンでは合コンキングと呼ばれていたらしいですよ。
そして、授業にほとんど出席せずに卒業することができ、
特にこれといった強みがなくても大手商社に入社に入社することができたことで、
「人生を舐めていた」という時期があったようです。
しかし、そこから転落人生が始まります。

商社の仕事で台湾に渡り、そこで当時の台湾で激しくなっていた民主化運動に触れることになります。
台湾の政治番組に、出演予定だった日本の外務省の人が出られなくなり、
急遽代理で民間の面白い人を探していたテレビ局から、出演依頼を受けます。
驚きの経緯で出演することになった、台湾のテレビ番組では、
テロップの間違いから誤解を受けバッシングされます。
そして民主化運動に巻き込まれていきます。
台湾での独立運動で、社会を変えるために熱くなる人々に出会った体験が、
自分のことや金儲けのことばかり考えていたという小川さんの、何かを変えていったようです。
振り返ると、この時が「私」と「公」というものの繋がりについて考えるきっかけになったかもしれないとのこと。
その後、台湾での任期を終えて、北京に赴任します。
そして、不気味な程静かな天安門でハンバーガーを食べながら、
大学の時に話題になっていた天安門事件の事を思い出し、辞職を決意されたそうです。
台湾での出来事や、北京でのあまり楽しくない日々の出来事など、心情の変化は時間をかけて起きていたようです。
そして、社会を変える事を宣言し辞職。フリーターに。
もともと法学部を出ていた小川さんは、自由を謳歌しながら、
人権派弁護士として働くことを目指して、司法試験の勉強を独学で行います。
そして、2回程受験に失敗します。
そして、貯金が底をついてくると、ボロアパートに引越し、夜の肉体労働でお金を稼ぐようになります。
ボロボロの服に髭も髪も手入れしていない姿で、人に会わなくなり、引きこもり生活に。
不規則な生活と栄養不足で、ついには大腸から出血し、小川さんに大腸がんの疑いがかかります。
その後、病院の検査で癌ではないと分かり、もう一度神様に命を与えられた、
と感じた小川さんは、久々におばあちゃんに会いに行きます。
そして、「なにくそで頑張れ」と励ましの言葉をもらい、再度立ち上がる決心をします。
ドイツの哲学者ハイデガーの言葉に「死を意識すると懸命に生きられる」という言葉があるそうです。
小川さんは、自分を救ってくれそうな本を手当たり次第に読み漁り、一番しっくりきたのが哲学の本だったとか。
現在につながる哲学との出会いは、人生のどん底の時だったのですね。
その後、市役所職員になり、大学院と子育てをこなしながら、高専の先生になった!

そして、再就職したのは、もともとの目的である社会を良くしたいという思いを叶えられる、市役所職員という仕事でした。
当時の小川さんにとって、哲学は趣味であり、人生を救ってくれる恩人だった。
働きながら哲学を勉強していくことで心が決まっていたそうです。
4年半ものフリーター生活というブランクを抱え、市役所での仕事が始まります。
年下の先輩から叱責を受けたりということも経験されたそうです。
その時のことでは、「ドイツの哲学者ヘーゲルの、仕事は自分を磨くためにある、失敗も含め、また一つ自分が磨かれたと思えば前向きになれます。」
と言葉を綴られていました。
そうして、1年が過ぎた頃に哲学の勉強について考えていたところ、
名古屋市立大学の社会人でも通える昼夜開講のコースがあることを知ります。
そして、関心のある分野、公共哲学について学べることを確認します。
大学院に行くのは、大きな出費ですが、一生ものの財産になると考え、決意したそうです。
この時には、ご結婚もされていたそうです。奥様の理解なしにはできないことですね。
こうして、5時まで仕事、5時から深夜まで学生というハードな生活をこなすことになります。
さらに、子育ても加わります。
けれど、2度目の学生生活、2度目の社会人生活を今度こそやり直したいという気持ちが強かったそうです。
大学院では、成績はオールA、無欠席だったそうです。
また、学会活動にも力を入れ、ジャーナルに応募したり学会や勉強会に積極的に出席したりされていたようです。
時間の捻出は大変で、片手でミルクをあげながらワープロに向かったりしていたそうです。
そして、大学院の卒業まで1年となった時に
徳山工業高等専門学校で哲学の教員募集を見つけます。
ダメ元で思い切って応募してみたところ、
面接に呼ばれ採用が決まったそうです。
倍率は50倍。すごいですね。
セネカの言葉に
「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、
最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。」
というものがあるそうで、その時の小川さんの気持ちに例えています。
哲学カフェの活動や海外研修を経て、山口大学へ。テレビ出演も行い、活動の幅を広げている。

高等専門学校では、初めての教員という仕事に戸惑いもあったようです。
最初の頃は、なかなか思いが伝わらずに声を荒げたり、
純粋さや優しさに心打たれて涙したりと、貴重な経験をされたそうです。
そんな中で「哲学カフェ」を始め、学生や市民と哲学を楽しむという企画をし、シャッター街の商店街にその場所を選びます。
まちづくりという市役所での経験も活かされています。
すると、みるみる人が集まり地元のメディアでも取り上げられるようになります。
そこから、まちづくりに発展し、「アート驚く商店街」という活動でお元気商店街100選に選ばれたりしたそうです。
それから、「朝まで生テレビ」という大晦日の番組に出演したり、
「哲学カフェ」の地道な活動を報じられたりします。
また、哲学の入門書も売れるようになっていき、テレビの出演依頼も増えていったそうです。
そうしているうちに、もうひと皮剥ける必要性を感じるようになり、海外研修を希望します。
そして、アメリカのブリンストン大学にダメ元でメールをし、
会ってから決めたいとの返信をもらった小川さんは、アメリカまで直談判に行き、
受け入れを承諾してもらうことに成功します。
海外に渡り、日本の良さが見えてきて、日本独自の概念に着目し、論文を書いたりしたそうです。
アメリカでも人脈を広げ、様々な偉人から学びます。そして、グローバルな活動へとつなげています。
ニュースのコメンテーターや参議院の憲法審査会に呼ばれたり、
山口大学から新設学部へのお誘いが来たりと順調に人生が進んでいきます。
テレビ出演の機会も増えているそうです。
「世界の哲学者に人生相談」という番組でお会いできるのも、これまでの功績からですね。
小川仁志さんの魅力とは

最近の活動では、成功者の道を突き進んでいる印象の小川さんですが、
人生の歩みからは、一筋縄ではなく、人一倍の努力と、
哲学という軸が支えになっていた事が伝わってきます。
心の軸を持つというのは大切で、辛い時に腐らず頑張り続ける原動力になります。
それを哲学の中に見出すことが出来たからこそ、
そして、本心から好きで続ける事ができたからこそ、成功できたのではないかなと思います。
もし小川さんの人生が、順風満帆なだけの人生だったら、あまり魅力を感じていないだろうし、
記事にしようとも思わなかったと思います。
過去に、死ぬほどのどん底を経験しているからこそ、心の支えになるものを求めた。
そんなダメダメな時代の小川さんこそが、魅力の原点だと思うのです。
また、過去の経験には、必ず意味があるのだなという事も感じました。
いろいろな経験が人を形作っている。
出会いにも意味があるし、出来事も偶然を装って実は運命が運ばれてくる。
小川さんの人生を垣間見させて頂き、不思議だな、と思わずにはいられませんでした。
また、小川さんの内側に灯るメラメラとした炎も感じました。
野心があり、目標を設定し、努力と行動を惜しまない。
これが、小川さんの強さだなと思います。
誰にでもできるとは思えないのですが、心から好きなことに出会うと、すごいパワーを発揮できるのものなのでしょう。