あえて、タブーな話題に切り込む理由

よく、政治と宗教の話はタブーだと言われます。

確かに、意見が分かれる話題だし、

それぞれに信条があるので、

揉め事の原因になってしまったり、

熱くなりすぎてまとまりにくかったり、、

いろいろ話しにくい理由はありますよね。

普段の生活の中でも、

政治の話って、ほとんどしません。

宗教の話も同様です。

けれど、こういう話題は、

個人の内面の深いところを示していて、

こういう部分を出すことで、

個人が何を信じているのか、

どういう考えを持っているのかがお互いに理解できる

とても重要な話題でもあるように思います。

場合によっては、深い絆を感じられたり

することもあるかもしれません。

揉めても仕方ないし、

話しても、平行線ということもあるでしょうから、

それはそれで、いいよね。

というところなのですが。

こういう話をするためには、

お互いの意見に耳を傾ける寛容さと

自分の意見は絶対ではないという柔軟性と

高い視野でものを見て、

必要に応じて見方を変化させることのできる

客観性が備わっている必要があるな、と思います。

意外と、難しいことです。

難しいことだけれども、

最近の社会情勢は、緊迫していて、

持っている情報の違いが、

命の危険にも関わる現実があります。

緊急事態条項や新型コロナワクチンのように、

命の危険を伴う、明らかにおかしいことが

進められています。

(ご存知ない方は、どうか、調べてみてくださいね。

このブログでも、わずかですがお伝えしています。

参考までに、記事のリンクを置かせて頂きます。)

緊急事態条項について

新型コロナワクチンについて

これらはカルトのように、

人の不安感などの感情を刺激して行われます。

(実際、自民党の裏には統一教会がいましたね。)

ウィルスへの恐怖や

国防に対する危機感を利用して

思惑通りにするための

誘導はないかどうか、

考えてみるのも大切だと思います。

多くの人達に害を及ぼすようなことが、

一部の人の利己的な目的のために、

行われている現実があります。

オレオレ詐欺のように、

明らかな犯罪に対しては、

誰もが注意喚起をしますよね。

選択権が個人にあったとしても、

心理操作によって、

何らかの意図をもって、

ある選択肢を選ぶように誘導されていたとしたら、

自分の健康や幸福のために

正しい判断ができるでしょうか。

最終的な判断を個人に委ねることで、

自己責任という形を取っています。

だからこそ、危ない事は危ない、

とお互いに注意し合えるように

普段から政治や宗教の話もできるような

環境であることは大切なのではないかと思います。

海外では、政治の話を普通にしている国もあります。

国や政治家が守ってくれるような、

甘い世の中ではない。

これは、現実を見れば明らかで、

受け止めなければならないこと。

ただ、政治の動きなどを

見つめることは大切だけれど、

絶望したり、怒り狂ったりしても、

現実にはほとんど影響を与えないし、

ずるい人達の中には、

その感情を利用しようとする人がいたりします。

そして、政治のおかしさも、

根本的な原因は、

人の心の中で作られた思考だったりします。

「自分さえ良ければいい。」

立場が守れるから、得するから、

名前が売れるから、

「今だけ、金だけ、自分だけ」

こういう、個人の欲にかられた考え方。

もしくは、脅しなどがあって、

恐怖や不安にかられて

自分を見失ってしまう場面。

判断を間違えて弱みを握られた人も

いたのかもしれません。

後から冷静になると、後悔するような

選択をしてしまうようなことが、

誰にだって、ないとは言えません。

こういうものにつけ入られた時に、

どういう信条を持っているのか。

自分自身の核となるものは何か。

こういうものがしっかりしている人は、

簡単におかしなことはしないし、

ずる賢い人達のささやきを

跳ねのける力を持つのではないでしょうか。

だからこそ、目に見えないものだったり、

何か計り知れない大きな力や

宇宙の仕組みが存在することへの畏敬の念や、

生かされていることへの感謝や、

生きとし生けるもの同士の繋がりや、

そういうものを語り合い、分かち合うこと。

お互いに、違う物を信じていてもいい。

名前は違っても、

根を辿れば、同じものなのではないかな。

と思うのです。

それが、イエスキリストや釈迦のように

人の姿をしていようが、

太陽だろうが、石だろうが、

そこに宿る何か、見つめる先にある

大きな力のようなもの。

もしかしたら、神様や大いなる力のような、

見えないけれど、

私たちを生かしている不思議な何かを

信じることができないと、

拠り所となるものを、

目に見える現実世界にしか持つことができず、

「今だけ、金だけ、自分だけ」という考えに

陥ってしまう面もあるのかな、、と思ったり。

「悪い事をしたら、

巡り巡って、自分に返ってくるよ」という、

一見なんの根拠もないような

迷信じみた言葉よりも、

目の前にある地位や現金の方を選んでしまう。

そういう心の在り方を見つめていく必要があるよ、、

こんな風に、時代は語りかけているのかもしれません。

ピンチはチャンス。

学びの絶好の機会が到来しています。

この時代に生まれてきたことには

きっと何かの意味があって、

スリリングな社会情勢の変化を感じながらも、

超自然的な存在との繋がりを感じ、

そんな中でも、楽しみを見い出しながら生きられたら、

何か道が開けてくるのかもしれません。

目に見えない部分、

精神性を大切にしていくことが求められる時代。

そういう、個人個人の信条を

深いレベルで話せることで、

お互いに対する理解が深まり、

他人を信頼できたり、

助け合う事のできる関係性が築かれていくのでは

ないかなとも思うのです。

ヨーロッパのように、

キリスト教徒が多い国々では、

お互いに信じるものが同じと言う所での

信頼感があるように感じます。

別に、同じものを信じなければならないと

言いたい訳ではなくて、

信じるものは違っても、

違いを受け入れる寛容さや、

むしろ違いの面白さを楽しむ心のゆとりを持つこと、

全体性の中で、

共存するための知恵を出し合うことや、

譲り合う気持ちを持つこと、

意見が違ったとしても、

個人として尊重する気持ちは持ち続けること。

相手に対する個人的な感情と、

その人の意見や信条に対する見方は、

別のものであって良いと思うし、

それでも助け合えたりすると思うのです。

人間である以上、

全ての価値観や考え方が同じ人なんていません。

似ている部分があったとしても、

真逆の部分もある。

それでも、相手の事が好きとか、

大切だと言う気持ちは変わらない。

それが、自然な在り方のような気がします。

100%理想の人なんて、いなくて良い。

救世主を求めず、自分にできることを考える。

この人には、感謝しているし尊敬できる。

だけれども、この部分では意見は違う。

その違う部分を出したせいで、

関係性が崩れてしまうなら、

それは、悲しいけれど仕方ないのかもしれません。

兄弟の事を考えると、分かりやすいのかもしれません。

同じ親から生まれ、同じ環境で育っても、

性格は全然違う。

考え方や判断基準、選ぶものも違う。

時には喧嘩もするし、言い合いにもなる。

けれども、それでも相手の事が大事だし、好き。

こういう在り方に近いのかなと。

もし、兄弟が危ない方向に行こうとしてたら、

注意もしますよね。

そんな感じで良いのかなと。

誰かに頼り切ったり、崇拝したりするのではなく、

自分の中で吟味して、

いろんな人の意見も参考にしながら、

こうかもしれない、ああかもしれない、

そういう風に考える中で、

しっくりくるものを探したりしながら、

自分の軸を作っていく。

自分が絶対正しいわけではないことも知っているけれど、

それでも、自分の考えを他の人の考えよりも

大切にして生きる事って、

自分の人生に責任をもって、

主体的に生きていくためには、

大切だし、必要なのではないかなと思います。

そんな感じだから、

タブーとかにしないで、

大事な話をできたらいいな、と思っています。

今日も、お読みくださいまして、ありがとうございました。

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