社会の闇は個人の闇の集合体

戦争や、様々な犯罪は、なぜ起こるのでしょうか。

それは、一部の特異的な性質を持った

異常な人によって、起こされるのでしょうか。

もちろん、サイコパスのように

精神的に問題のある人によって、

引き起こされる問題もあります。

マインドコントロールや洗脳、

脅しなどの手段を使って、

自ら手を染めるのではなく、

組織的に巧妙に行われる犯罪もありますよね。

そんな悪の最も深い部分、根本を辿れば、

極悪の部分に存在するのは、

ある種の魔物であり、

人間以外のものである可能性もあります。

目に見えない存在による憑依と言った現象も

絶対にないとは言い切れないものだと思います。

そして、それは意外と特殊なものではなく、

日常的に誰しもが経験しているような

身近な現象である可能性すらもあると思います。

我を忘れて、酷い言葉を言い放ってしまった。

こんなことは、割と身近に起こったりするものです。

目に見えるものだけで理解しようとすることには、

限界を感じます。

と言うのも、あまりにも理解の範囲を逸脱した、

こんな恐ろしいこと、人間がすることか。

というような残酷な事件の存在を考えると、

どうも、説明できない何かがあるとしか

思えないからです。

存在は皆、振動していて、

周波数を持って存在していますので、

何と同調するのかという事が大切で、

普段、自分が抱いている思考や感情に伴い、

引き合う人や引き寄せる存在が変化するのだと思います。

悪い波動は悪いもの同士で引き合い、

集合体を形成していきます。

個人個人の持つ、心の闇の部分、

暗い思考や暴力的感情、

無関心や冷徹さ、

支配欲などの欲望に駆られたりする部分などが、

それらの原因となっています。

闇を見つめることは、

自分の中に、汚物があることを認めることであり、

時に、それに飲み込まれてしまう弱さがあるという

事実を認める事でもあります。

誰でも怒りや不安、恐怖や欲望などを

感じる瞬間はあり、

人間はそのように作られていますから、

感じること自体は自然な事で何の問題もありません。

けれど、あまりに長時間、

人を憎しみ続けたり、恨みを募らせたり、

復讐心を抱えていたりすれば、

その毒により、自らを滅ぼすことは、

なんとなく伝わるのではないかと思います。

そして、闇が深ければ深いだけ

人に打ち明けることは恐怖を伴います。

そして、隠そうとすればするほどに、

自分の奥深くに埋もれていきます。

もう、あたかも存在すらしていないかのように

知らんふりをして過ごす方が楽なので、

多くの人がそのようにして、

自分の中に潜む闇を隠し、

存在すら忘れていることもあるでしょう。

正面から向き合ったりすれば、

苦しすぎて、生きていけないような気持ちになったり。

その、見て見ぬふりをする姿勢は、

一種の思考の癖のように

無意識に身についてしまっている

ものなのだろうと推察します。

これは例えば、こんな場面に表れます。

政治家の問題や、国レベルの問題など、

ニュースで扱われるような問題に対しての姿勢です。

自分とは直接関係ないような遠い話に感じる内容には、

無関心、見て見ぬふりをする姿勢となり、

理解しようという努力をしないどころか、

考えてもしょうがないと、ほったらかしにします。

自分の内側でも同じことをしているのだとすれば、

その人にとっては自然な事です。

きっと、その思考の癖を持っているという、

自覚すらもないことでしょう。

その姿勢を続けた結果が、

自分の身に降りかかる災難に変身して

返ってくることにも気づかないままに。

例えば、政治に無関心でいる人が

多くなるとどうなるのか。

政治家は好き放題に、

自分達に利益をもたらしてくれる

一部の人達のために働くようになり、

おかしな法案を通し、

いつの間にか、国民に不利益となる状況が作り出されます。

人は、個性を持った存在で、

一見、バラバラのようにも見えますが、

見えない世界では、全体の一部です。

見えない根っこの部分でつながっている。

一人一人の心の在り方が、

全体に少しずつ影響を与えています。

一人一人に、社会に対する責任が存在します。

あらゆる犯罪から、

自分達を救い出すために必要な事は、

一人一人が自分の心の闇と向き合う努力をしていくことです。

もちろん、心の闇を見つめるか見つめないかは

個人に選択権があり、

誰も強制することはできません。

あまりに闇が深いと、

辛すぎて受け入れられない人もいます。

強制的にそんなことをすれば、

それは、一種の暴力みたいに

なってしまうのだと思います。

どんなに必要性があり、

闇を見つめ、表に出すことが正義のようであると感じても、

それが、幸せにつながる道だと個人的に知っていたとしても、

選ぶ自由は、その人自身にあることは、忘れてはならない。

選択を尊重すること。

それでも、相手を大切に想い続けること。

こうすることしかできないのでしょう。

準備が出来るまでに時間がかかる人もいます。

それは、優劣でも損得でもなく、

早く咲く花と遅く咲く花があるのと同じように、

自然なことなのだと思います。

自然の流れとして、

準備ができた人にしか、

闇を見つめることの重要性や必要性の話は、

理解されないようになっているのだと思います。

忍耐と寛容さをもって、

見守るしかないこともある。

この話を理解してくださる方の中には、

身の回りに、闇を抱えている人がいて、

もどかしさを感じている方もいるかもしれません。

深呼吸して、花が咲く準備ができることを祈りつつ、

ただ、幸せを願って手を合わせるしかない時はあります。

けれど、負担にならない程度に

少しずつ受け入れられる範囲の事を

伝えていけたらと思っています。

闇が深い社会には、

闇を見つめる作業が求められます。

大変ですが、一人一人の小さな努力が実を結び、

小さな光が合わさって、いつか大きな光になって、

社会を照らす日がやってきますように。

今日も、お読みくださいましてありがとうございました。

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