いじめや差別と劣等感について思ったこと。

こんにちは、hanaです。

今日はちょっと重いタイトルです。

いじめと差別って

似ているなと感じることがあって

昔、いろいろと辛い思いをした分

感じることがあります。

中学生くらいの時から

いじめる人間の心理とか

悩みながら本を読んだりして

調べたりしていました。

なんでこんな目にあわされるんだろう。

親友だと思っていた子に突然裏切られたり

酷い言葉を投げつけられたり

いろんなことがありました。

当時の私には分からなかったことが、

今では、いろいろ見えるようになって

もしも、中学時代の

自分に会うことができたら

そんなの全然気にすることないって

伝えてあげたいなと思います。

ここから先は、中学生の自分に向かって書きます。

中学生の自分へ

痛い目に遭うことって

本当は、

それに耐えられる強さがあるから

だから起こるんだよね。

そして、魂レベルでは

辛い思いもしてみたかった

憧れの経験だったのかもしれない。

嘘でしょ?あり得ない!!!!

と思うよね。

渦中にいる時は、

とてもそんな風には思えない。

試しにさ、あなたはここに

何をしに生まれてきたのかって

考えてみたらどうだろう。

地球は、魂を輝かせる学び舎で

生まれて来る前に

どんな人生を送るかを大まかに決めてくる。

いじめてきた人達とすら

事前に計画を立てていて、

ここで私があなたをいじめるから

頑張ってねとか。

もしかしたら、協力してくれていたのかもしれないよ?

たまに、夢の中で

昔、私に対して嫌がらせをしてきた

人たちと会うことがあるのだけれど、

不思議とお互いに何事もなかったように

普通に接しているんだよね。

まあ、それはいいんだけど。

なんで、そんな辛い経験を選ぶのかって意味不明だよね。

だけど、ここでしか体験できないことがあって、

辛い経験こそ自分を磨いてくれたりする。

痛みや苦しみは、

頭の理解では不十分なこともあって、

実際に体験した分だけ

辛さが理解できるようになるし、

いじめや差別はどんな心が生み出して、

なぜ、そうなったのかを理解したら

今まで見えなかった視点から

物事が見えるようになったりする。

そのことについて、

この後に書いてみたいと思うので、

少し分かりにくいかもしれないけど、

良かったら読んでみてくださいね。

私は、辛い経験こそ

魂の光を強くしてくれる

宝物のような尊い経験だと思います。

いじめや差別の根本にあるもの

誰かを蔑視することで

優越感を保とうとするかのような

弱い部分が人間の中には存在します。

これは、そうしようと思っていなくても

いつの間にか知らないうちに

そんな部分が顔を出したりするもので

自分はそんなことしないと思っていても

よくよく振り返ると

本当に誰もが大なり小なり持っている

そういうものです。

それは、小さな自分を守ろうとする働きで、

内側にある劣等感を

覆い隠そうとする無意識の働きでもあります。

違いを受け入れ

相手の良いところを認めると

負けたような気がしてしまう。

そんなことは、決して許せない。

受け入れられない。

プライドが許さない。

本当は、それくらい自信がない。

そんな部分が

差別やいじめをする人には、あったりします。

これは、無自覚に起こることだから、

本人たちに聞いても、

もちろん否定するでしょう。

もしかしたら、心の深いところで、

自分が正しいと信じているものを

壊されるような気がするのかもしれません。

そんな意識が、争いや攻撃的な状態を作ります。

何が正しいかを主張することから

争いが生じるのではなくて、

相手には相手の良いところや

正しさがあることを

認められない心が争いを生みます。

正しさというのは時に

混乱をきたしやすいものです。

それぞれに個性があるように

正しいと信じているものも

それぞれに異なっていたりします。

それぞれの視点から見た

それぞれの正しさがあることを受け入れ

そんな見方もできるよねと、

違いを認めたら

争いにはなりません。

自分の方が優位でありたい。

どうにかして、それを示したい。

実は劣等感にまみれた

そんな思いが攻撃の火種を作ります。

本来は、違いがあるから

学べることもたくさんあります。

より良いものを知ることができたり

違う視点から見た新鮮さを楽しんだり。

誰でも間違えるし、

誰でも知らないことはあります。

もちろん私もそうです。

それを素直に認めて

相手の中に素晴らしさを認める心からは

争いは生まれません。

宗教の世界でさえ争いになるのは

宗教は、基本的に平和の教えを説いているのに、

なんで戦争になるの?って

思う事があるかもしれません。

いろんな宗教の対立が起こるのは、

自分の信じるものが正しい

そして相手の信じているものは

自分の信じているものとは違うと知った時、

異質なものは排除したい。

と感じるところから来るようです。

それは何故か?

そこに脅威を感じるから。

もしかしたら、

自分が間違っているんじゃないか

という不安、恐怖を

無意識のうちに感じるから。

賢者は本質を見ている

けれども賢者は 

そういう捉え方はしていないようです。

インドの聖者であるパイロット・ババジは、

ヒンドゥー教の祭典に

仏教やイスラム教やキリスト教の

指導者達を招待したそうです。

ヒンドゥー教徒の中には

仏教徒を認めておらず差別的な見方をする人もいて、

仲があまり良くないにも関わらずです。

パイロット・ババジは、

他の宗教の指導者達と

宗派を超えてつながりましょうと、

お互いに話したそうです。

かつて日本に仏教が伝わった時、

聖徳太子は仏教を受け入れる道を選択しました。

日本には元々、

八百万の神への信仰がありました。

もう一つ、加わってもいいよね。

そんな中で、日本人の間に

仏教は広まっていきました。

多様な宗教を受け入れることのできる

民族であることは尊い資質を示しています。

異質に見える宗教でも

どちらにも真理があること。

違う現れ方をしているだけで

根本は同じであることを

賢者は見抜いています。

だから、兄弟として受け入れる

寛容さを持っている。

どちらも本質は同じだから。

それがキリスト教と名前がついても

仏教でもヒンドゥー教でもイスラム教でも

みんな根本は同じことを伝えている。

ただ、表現方法が異なるだけのような。

そんな感じかもしれません。

例えば、

3+3+3=9  

を  

3×3=9

と表現するような感じのイメージ。

数式は違うけれど、

〇〇〇   〇〇〇   〇〇〇

のように、

3の塊が3つある状態を表わしている

ということに変わりはないですね。

これが本質は同じというイメージで、

本質の部分でつながっています。

ただ、宗教が争いになってしまうのは

本質に対する不十分な理解と

都合の良い解釈により捻じ曲げられ誤解されたり、

異質なものを脅威をとして

理解ではなく排除しようとしたから。

不十分な解釈で本質が変わってしまった

というのを計算式にすると、

3+3+3=9

1+2+3+3=9

としてしまう感じ。

これは、答えが同じ9だからいいよね。

という不十分な理解で、

本来、伝えたかった3が3つということから

外れてしまった状態。

それは、

〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇

であったのが、

○ 〇〇 〇〇〇 〇〇〇

になってしまっているということ・・・。

それは、

それぞれの心の中で起きたことが

原因になっています。

大切なことは、

それぞれが自分の頭で考えて

理解しようとすることなのかなと思います。

宗教だけでなく、人間もそうです。

同じ人間同士。

肌の色とか関係ない。

本質的に大きな違いはない。

ただ、自分を認めてもらいたい。

素晴らしいと思いたい。

けれども、それが難しかったりすると、

自分よりも劣った存在として

誰か自分より下の存在を作ることで

自分を優越感で満たそうとするのかもしれません。

そんな満たされない想いが

いじめや差別を生む原因になっているようです。

全ては心の在り方からくることです。

いじめられる側も

差別される側も

普通に生きている人間で

本質的に何かが劣っているのではなく

むしろ、本当は、

優れた資質を持っているから

嫉妬されたり、

脅威とみなされるのかもしれません。

だけど、そういう人は強いから

本当の意味で負けないんだよね。

黒人さんだって

ネイティブ・アメリカンだって

歴史の中で迫害されてきた人達は、

美しい笑顔をたたえながら、

自然の中で育まれた智慧や信仰心、

歌や踊りという素晴らしい文化を

伝えてきた人達。

そこに自分たちにはない

何かがあるから脅威を感じた。

かつて、大東亜戦争で

日本人の強さに驚いた米国が

その後、こてんぱんに

日本を叩きのめしたように。

いじめとか差別は

されたならそれだけ

相手の脅威になるような何かを

持ってたってことだから、

仮に自分には何もないと感じたとしても

持ってない人にしか分からない

何か脅威になるようなものが

きっとあるってことなんだよ。

だから、いじめられても気にしなくていいし、

めちゃくちゃ嫌だったら、

真面目に部活行かなくてもいいんじゃない?

自分軸でいこう。

今日は、中学時代の自分への手紙。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

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