
こんばんは、hanaです。
今日は、読んでいた本の一節が気になったので、
そこから書かせて頂きます。
私は今まで、占星術について
専門的に学んだことはなくて、
面白そうだけれど、それを学び始めたら
多分、一生かかっても理解しきれない。
そんな気がしています。
ですが、すべてがフラクタル構造になっているとすると、
星の配置には何らかの意味があり、
誕生や死など、人生の中で特別な瞬間に
表わされる配置の中には、
なんらかの暗示が含まれているような気がしています。
今、読んでいる本に星学についての記載がありました。
インドの聖者の一人、
パラマハンサ・ヨガナンダの師である
ユリ・スクテスワの言葉を引用したいと思います。
星学は、星の刺激に対する人間の反応を研究する科学だ。
星には意識的な善意や悪意があるわけではない。
星はただ、陽性または陰性の放射線を放っているにすぎない。
これらの放射線は、それ自体としては人間を助けたり
害したりするものではないが、
各人が過去においてまいた行為の種子(因)に、
因果の法則による発芽の機会(縁)を与えるのだ。
子供は、この天からの放射線と、本人の個人的カルマとが
数学的に合致したその日、その時刻に生まれる。
彼の天宮図は、彼のもはや塗り替えることのできない過去と、
それから生ずるであろう未来を予想して見せる、
いわば運命の挑戦的肖像画だ。
しかし、この誕生時の天宮図を真に正しく解釈できるのは、
直感的英知の開けたごくわずかな人に限られている。
誕生の瞬間に大空いっぱいに描かれるこの託宣は、
決してその人の運命
(過去の所業が原因となってもたらす結果)
を強調するためではなく、
むしろ、その束縛から抜け出そうとする
人間の意志を喚起するためのものなのだ。
自分でした事は、自分で元どおりに直すことができる。
現在自分の身のまわりに起こっているいろいろな出来事は、
すべて自分自身がまいた原因から生じたものだ。
どんな障害でも克服できないものはない。
なぜなら、その障害はそもそも自分自身の
行為がつくり出したものであり、
しかも人間は、星の力などには影響されない
霊的資産を持っているからだ。
あるヨギの自叙伝 p170より
そうなのか・・。
あなたの運命はこんな感じですよ。
なんとかできるから、挑戦してみてね。
ってことだったのですね。笑
そう考えると、「こうなる運命にありますよ。」
というメッセージを聞いて、
運命の流れに従うしかないというより
「じゃあ、どうしていこうか。」と、
出来事についての解釈の仕方を変えたり、
解決する方法を自分で探しながら
いかにその運命という挑戦状に臨んでいくか
という面白いものでもあるようです。
「あなたは、こうなります」って言われたら、
なんとなく気になってしまうものだけど・・・。
例えば、「宝くじで3億円当たりますよ」
って言われたとしたら、
(そんな占いあるかよ。笑!)
じゃあ、働かなくていいかっ!
て考えることもできるし、
じゃあ、その3億円で社会に役立つことを
始めてみようとも考えられる。
どの選択をするかで、その後が変わる。
変えられないことを受け入れていくという
受け身の意識で過ごすのではなく、
いつだって、未来を創る視点で
今をどう生きるかを選択するという
意識でいることが大切ということなのかな。
今、目の前にある課題や悩みに対しても、
例えば、病気になってしまったとか、
事故にあってしまったとか、
「どうすることもできない。」
という部分もあるかもしれない。
けれども、そうなったことで得られた学びは何か、
この出来事は私にとってどんな意味があるのか。
その時の状況には、
変えられない部分と変えられる部分があって、
例えば、病気自体が良くならないとしても、
その状態に対する捉え方は変えられるし、
その状態でも、
できることを増やす工夫はできる。
どこに焦点を当てるかで、
絶望的になるか、希望をもつかも変化する。
・・さらにユリ・スクテスワの言葉は続きます。
賢者は、その信仰の拠りどころを被造物から
創造主に転換することによって、
自己の星すなわち過去の因縁に打ち勝つのだ。
人間は、自己の霊性に目覚めれば目覚めるほど、
物質的に支配される度合いが少なくなる。
魂は、もともと永遠に自由なのだ。
それは生まれてできたものではないから、
死ぬこともないし、
また、星によって支配されることもないのだ。
あるヨギの自叙伝 p170より
インドの聖者の話には、奇跡的な出来事や
神秘的な事象が多く登場します。
遠くにいるのに、目の前に姿を表わしたり、
死の淵にある病を癒したり。
これらを現実の事として受け入れるのか、
創作として扱うのかは、
好みの分かれるところだと思いますし、
別に何かを信じなければならない義務もないです。
ただ、思う事は、
こういう不思議な現象をも
あり得ることだという意識でものを見たり、
純粋な信仰心を持つことである種の力が芽生える。
それは、神といってもいいし、
説明のつかない神秘的な力が
味方するとも言えるのかもしれません。
そして、その信仰心の強さに呼応するように
魂に秘められた力が反応しだすということは、
あり得ることだと思うのです。
魂は物質に縛られない自由なもの。
私達は、物質に縛られない存在だった。
その想いのもち方によって、
信じる方向に物事を展開させていく力を
本来持っているということですよね。
祈りも信仰も、神聖な力をもつものですね。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
お読みくださいまして、ありがとうございました。