
「すべては許されている」と言うのは、
とても心地の良い言葉です。
すべては1つで愛なんだっていうのは
聴いていて心地よい。
ですが、今日は敢えて心地悪い話をします。
これ以上聴きたくない方は
ここでページを閉じてください。
人気とかウケとか狙うのであれば、
商売として成り立ちやすい、
「すべては許されているよ!」
のような心地良い言葉を
話していた方がいいのかもしれません。
みんなが寄ってくるような
愛される言葉を使うのは、
ある意味、当然のことかもしれない。
だけど、私はそこに対して
なんとなく違和感があった。
言いにくいけど
少し違くない?という感覚。
もちろん、
許すこと自体は大切だし、
許されているということは
確かにそうなのだけれど。
使ってはいけない禁句なわけでもないし、
私も使うことがあります。
だけれど、使い方には
注意が必要な言葉だよな・・。
と感じます。
だから、敢えて
嫌われるかもしれないけど本音で語ります。
高次元では、自分と他者の境界線が曖昧になる
高次元は、もし例えるなら、
お母さんのお腹の中の感覚が
近いかもしれないと思いました。
赤ちゃんは、お腹の中で
敏感にお母さんの気持ちを察知します。
これは、胎内記憶とかではなく、
自分がお腹に赤ちゃんを宿した時に
感じ取った赤ちゃんとの感覚です。
つながっている感覚。
私がリラックスしていると
お腹の赤ちゃんは元気にお腹を蹴飛ばすし、
緊張している時には、
静かに丸くなってじっとしている。
お母さんの感覚を直に受け取っていて
自分がお母さんとは
別個の存在であるという認識もない
というか個々の境界線が
曖昧な世界かもしれない。
それは、言葉のないコミュニケーションで
テレパシーでのやりとりに
近い感覚かもしれない。
そこには、無条件の愛と
温もりが存在している・・。
みんなそこから来た。
お母さんのお腹の中。
高次元世界は
内面は筒抜けみたいなテレパシーの世界。
そこは、自分の中の疑いや憎しみや苦しみや
様々なものも全部わかってしまうから、
解消しないと一緒にいられない。
そこに入るには、
自分の心を清める必要が出てくる。
現世で楽しむことで満足なら、
すべてはオーケー。
許されているよ!になるけどさ。
私はやはり、
魂の存在はあると思う。
それが死後に全体の一部に還るもので、
この個性を持って
生まれてくることは一度きりだとしても
だからこそ、何をしても良いとは思えない。
嘘や隠し事や競争や・・
そういうものと共存できない世界が
存在している。
テレパシーがあると誤解が生じないし、
嘘も隠し事もできない。
自他の境界線が不明瞭なので
競争も比較もなく、孤独もない。
感覚的には分離の世界よりも
安心感に包まれていて充足している。
高次元に近づくには、
自分の中に巣食う苦しみや葛藤や憎しみや
悲しみなどと向き合って
受け止めていく過程があって
負の感情を解消していくことで
少しずつ近づくことができるようになる。
自分の内側にある闇と対峙することが必要になる。
すべてを許すと言うのは、
人間にできる範囲では、
自分の内面のことについてであって、
それ以上ではないのかもしれない。
そこを履き違えると
人間関係がおかしくなっていく。
自分を許せると
人に対して許せる範囲も
広がっていくけれど
どうしても許せない犯罪まで
無理に許そうとしなくてもいいし、
それはあくまでも
その人自身の解決すべき問題で、
自分の中に持ち込む必要はないように思う。
社会の闇は、
見つめること自体に意味があり、抑止力になる。
関心を向けること自体が光を当てることであり
そのこと自体が祈りに近い、
尊いことなのだと思う。
なので、大手メディアが機能できない社会で
そういう情報を提供してくださる
発信者の方々に感謝しています。
社会の闇を知ったことをきっかけに、
自分も同じような部分がないかと
自己を省みることは大切だけれど、
自分の責任の範囲外のことは
無理に許そうとしなくてもよくて
それは、この世界の全体像を作り出した
もっと大きな存在の
仕事なのかもしれないと感じます。
だからこそ、有り難くて。
感謝が尽きません。
私達は、
世界を創り出した存在の一部でもあるし
自分の内側にもその欠片が存在している。
その力を発揮していくには
純度を高める必要があって
磨くことが大切なのだと思う。
すべては許されているという言葉の生む誤解
自分の闇を見つめて、
自分の中の苦しみを癒していく過程では、
苦しみ自体を拒絶するのではなく、
苦しむ自分自身を受け入れ
許していくことが大切になります。
その時には、
「すべては許されている」という言葉を
自分に向けて使う事が助けになります。
そこから先を前向きに進むためであり、
今の状態を整えることが大切だと思うので。
「すべては許されている」というのは決して
後ろめたいことをするための
言い訳にはならないですし、
自己を正当化するための言葉でもなければ、
欲望に従うことを
肯定するための言葉でもない。
そこを履き違えたら
おかしなことになっていきます。
善も悪もないなんて
まやかしみたいなもので、
何を善とするかは立場により異なるとしても、
なんのために感情という
道しるべがあるのかを
感じ取ることが大切なのだと感じます。
分離の世界を生きる意味
この分離した世界に生まれた意味。
自分という低い視点での景色しか見えない体験。
喜びや悲しみや怒りや
様々な感情を味わう事から
大切なことを発見していくこと。
夢中になって体験することから学ぶことがある。
この世界は、視点を変化させると
屁理屈や言い訳に満ちた
魑魅魍魎とした混沌の世界にすら
見えることもあります。
たくさん味わったら、
そこから抜け出すことが
本当の調和につながっていくのだという
気づきがあって、
それは、「私」という
個の視点を超越することでもある。
どうやって抜け出していくのかを探ることが
最終的な目的になる。
自分や個という枠組みから外れた
「私」という主語のない
利害も損得も何も介在しない
純粋な存在としての視点を持つことで
自ずと行くべき方向が見えてくる。
今は、純粋な存在としての
視点に立つことそのものを
目指すことが大切なように思います。
過去に築いてきた
これが自分だという価値観や
当たり前や常識、考え方の癖を
手放していくこと。
魂の喜ぶことを見つける
「私利私欲のために動くことが、
なぜ良くないの?」
この質問に対する答えは
きっとたくさんあるに違いない。
そもそも、良くないと
考えない人もいるだろう。
そういう人も、考えてみようと言われたら
頭で答えを考えだすことは
きっと、できると思う。
ただ、頭で答えを考えるのでは
あんまり意味がなくて、
その理由を振り返ること
自分の体験を通して理解していくことが
求められているのかもしれません。
心の平安、幸福感、至福感
こういう感覚を掴むには、
現世的な喜び、楽しみ
贅沢な遊び、刹那的な満足感
このような誘惑が邪魔になることがあります。
自分を満たすことは大事だけれど、
それは、刹那的な喜びとは
少し意味が違うような気がします。
子供がおもちゃを欲しがるけれど、
手に入れたら満足でもなくて、
すぐに飽きては、次の何かを探すように。
プラスの感情は多くの人が好むもの。
だけれど、
プラスがあるということは
マイナスがあるということで
その振れ幅を少なくし、
0すなわち霊に近づけていくこと
静けさの中では、
一時的な感情でなく
魂の声につながりやすくなり
本当の望みが何かを感じ取りやすくなる。
「無」に近づくことが
次の次元への道なのだと私自身は感じます。
退屈に感じる人もいるだろうし、
ウケの良い話でないことは理解できます。
私利私欲を満たす方が
理解しやすいし楽しいですよね。
それを否定しているのではないですし、
そんな時もあって良いのでしょう。
一時的な欲を満たすことと
魂の望みを満たすこと
この二つの何が違い
なぜ、魂の望みを満たすことが大切なのか。
魂の望みというのは、
この命で何をしたいのかという
生まれてきた目的があって、
その望みに沿った生き方にある喜びは、
一時的な欲を満たすのと異なり、
尽きることがありません。
それは、個を超越した
望みなのかもしれません。
派手なものではないけれど
静かに心を満たすものです。
ただ、無に近づけば近づくほどに
秘める力は大きくなるのかもしれません。
そこから先は、私の知らない領域です。
「すべては許されている」
これは誤解を生みやすい言葉だと思います。
どのように理解して、
この言葉を使っているのかは、
人によって違う。
単なる逃げや言い訳として、
都合よく使ってはならない言葉。
本来、スピリチュアル、
つまり霊的というのは
存在そのものであるということで
自然な在り方そのものを示している。
そんなことを当たり前として
使う人たちの中では
言うまでもないくらい自然なこと。
逃げ道を作りたい、言い訳をしたい。
そのために使ってほしくない言葉だなと。
今日は、聴き心地の悪い話でした。
けれども、大事なことなので
一度、書いておきたかったことです。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
追伸:
hanaは、おそらく過去生で
修行僧していた時代があると思うので、
一般的にいう幸せとは、
少し価値観が異なっています。
いつのまにか、悟りを目指す感覚が入りますし、
自然に、魂がそちらを示す傾向にあります。
ごく普通の幸せを求める人には
少し合わない内容だったかもしれないと感じています。
おいしいものを食べたり、お洒落を楽しんだり
ワクワクすることを追いかけたり
そういう幸せも、もちろん素敵なことですよね。
そういうことを否定したいのではないし、
私もそういうことは好きです。
ただ、本質からは外れていると感じてしまう
これが正直なところです。
何を幸せと感じ、どうしていきたいのか。
ご自身の感覚を大事になさってください。
hanaは少し特殊といえば特殊なので。
おそらく普通の人が考える幸せとは異なる
自分の内側の平安を求める傾向が強いです。
そちらに本質があると感じているからでもあります。
そしてこれは、
少数の人が理解すれば良いこと。
世の中が成り立たなくなるので。
(みんなが修行僧してたら大変。笑)
なので、私の意見は気にせず、
ワクワクを追求して楽しんで
生きていってくださいね!
私の感覚に共鳴するものを感じる人は
感性が近い方なのだと思います。
それでは!^^