体育会系という価値観への疑問

こんにちは、hanaです。

今日は、自分を取り巻く集団の在り方から、

「体育会系」について、考えてみたいと思います。

よく、「体育会系だから。」という話し方を

する人がいます。

まず、体育会系ってどんな集団かを

振り返りたいと思います。

体育会系は、

目上の人に対し、礼儀正しく接する。

先輩を立てる。

絶対的な上下関係。

後輩は、こき使われて当たり前。

ルールを守らない人は厳しく罰される。

挨拶は、後輩から先にする。

集団により、細かいルールは異なると思いますが、

大まかにこんな感じではないかと思います。

こうしてみると、挨拶や礼儀など、

人間として大切な要素があり、

培うべきものを教えてくれる場であることは

理解できます。

「これが正しい事」と教えられれば

「そうなんだ。これが、正しいのか。」

と後輩は思い込まなければ、

この組織の中になど居続けられないでしょう。

いずれ、自分が上の立場になれば、

先輩たちのように、振る舞うことができる、

とも思うのでしょう。

この集団の在り方に対して感じることは、

集団を統率するということに関しては、

目標達成に向けて、主導する役割と

従う役割がはっきりしていて

まとまりを作りやすいのだと思います。

ただ、疑問点もあります。

それは、この組織構造は、

いわゆるピラミッド構造になっていて、

上が絶対的な権力を保持し、

下を従わせる構造であるために、

上が方向性を間違えた場合に、

修正が困難になることです。

下は、従う事を教えられ、

絶対服従という厳しさもはらんでいます。

先輩に文句など言おうものなら、

先輩集団から生意気だと睨まれます。

意見など言わない方が無難、

出る杭は打たれる。

という、厳しい世界。

厳しい世界を生き抜いてきた人たちは、

そのことに誇りをもち、

そんな厳しさの中でも生きていける強さを持つことが、

正しいのだという思い込みを持つことになります。

自分が我慢してきたのだから、

新人も我慢して当たり前と、

こうなっていきます。

これは、今の社会にそのまま

つながっている面もあります。

多くの企業で、この体育会系を経験し、

その価値観が正しいと言う思い込みを持って、

社会人をしている人もいるでしょう。

知り合いから聞いた話ですが、

とある会社で、

年齢的には中年層が多い職場に、

久しぶりに新人が入ってきたそうです。

そこでのやり取りについて、疑問を感じました。

「新人から、挨拶に来て当たり前。」

「新人は、お茶を汲んで当たり前。」

「新人のくせに、礼儀がなってない。」

こんな見方をする人たちがいるそうです。

けれど、体育会系を経験していない人にとっては、

その価値観は、絶対的なものではなかったりします。

「新人から挨拶して当たり前、、なの??」

「新人はお茶を汲むもの、、なの??」

いろいろな疑問符がつくと思います。

特に、先輩の数が圧倒的に多くて、

新人がごく少数という職場においては、

新人は大変な緊張を強いられることになると

想像できます。

挨拶まわりが常識なんて、知らなかった。

「知らなかった」から、しなかった。

それだけで、もう、睨まれたりします。

「あいつは、挨拶にも来ない。」

「無礼な奴」

それって、勝手に正しいと思い込んでいる

自分の常識を、見ず知らずの相手に

押し付けていませんか?

こんな見方をする厳しい先輩方を前に、

ますます新人は萎縮するでしょう。

そして、「知らない」のですから、

何が原因で睨まれているのかも

分からないでしょう。

こういう組織の在り方って、

どうなのでしょう。

先輩の数が圧倒的に多いなら、

新人さんの多くは、それだけで、

きっと緊張状態に置かれるでしょう。

少し、想像力を働かせれば、

新人さんの緊張をほぐし、

分からない事を伝えていく必要があることに

気づけるのではないでしょうか。

なぜ、「はじめまして、よろしくね。」と、

先輩から声をかけてあげないのでしょう。

厳しく教育された人の多くは、

それが当たり前だと思うと、

下にも当然のように、厳しくなります。

けれども、人と人との関係は、

本来の意味では対等で在るべきですし、

その場所の文化や流儀を知っている人たちが

多数であるなら、

入りやすいように、優しく伝えていくことが、

本当の礼儀なのではと思います。

礼儀と言うのは、

年上の人や、目上の立場の人にだけするものではなく、

対等な関係性や、年下の人、目下の立場の人に対しても

払われるべきものだと思います。

上の立場だから偉いわけではない。

人と人は等価値で、

お互いに尊重し合うべきです。

そして、

「自分がされて嫌な事は、相手にしてはならない。」

という基本的な事が理解できているのであれば、

偉そうな振る舞いは改めるべきだと思うのです。

下だからと遠慮させるような環境でなく、

「私はこう思います。」を

言いやすい環境にしていくこと。

そして、ただ批判するのではなく、

相手を理解しようとする態度を持つことや、

目標に向かって、

単純にトップダウンで従わせるのではなく、

どの意見を採用することがベストなのかを、

話し合えるような集団が望ましいのではと思います。

主従関係で縛るのではなく。

そうすると、自ずと良い意見を出そうと

それぞれが自発的に考えだすのではないでしょうか。

どんな集団にせよ、

一人一人の心の在り方が大切になり、

そこが基礎になります。

敬意を払う、お互いに思いやりを持つ、

この基本がなっていなければ、

誰かが苦しみを抱える集団に

なってしまう可能性があるように感じます。

上下関係のピラミッド構造を持つ集団が

「当たり前」と言う社会は、

それが正しいという思い込みによって、

苦しみや葛藤を生む危険性を

はらんではいないでしょうか。

人間関係に上下をつけると言うことそのものが、

本来はとても不自然なことだと思います。

親子であっても、年を取れば、

世話をしたりされたりは、立場が逆転します。

そんな風に、

人はお互いに支え合って生きています。

ですから、どちらが偉いとか

上だとか言うことを

決めようとすること自体がナンセンスです。

体育会系の価値観にどっぷりつかり、

その在り方が正しく、美しいものだというのは、

もしかしたら、間違いではないでしょうか。

少なくとも、これからの時代に合わず、

古くなっていく価値観であることは

間違いないのではないかなと思います。

なぜかと言うと、今の社会が、

上が腐敗していくことを証明しているからです。

上に立つものが余程の人格者でない限り、

この構造は正しく機能しないのだと思います。

現実には、人格者が上に立っているでしょうか?

上の立場にいる者だけが得をする。

上の立場にいる者にとってだけ、

都合の良い社会は、

もう、潮時なのではないかと思います。

それは、支配する側にとってだけ、

都合の良い構造だからです。

誰かが抑圧されて

成り立つような社会が健全であるとは、

私には到底思う事はできないなと。

そんなことを、知り合いの話を聴いて、

思っていました。

今日も、勝手なおしゃべりに

お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする