ありのままを受け止めることがもたらすものとは?

こんにちは、hanaです!

最近、気温のアップダウンがあるけど

元気にしていますか?

今日は、

ありのままであることが

何をもたらすのか?

という話をしたいなと思っています。

最近の学びの中で

大きかったものについて振り返ると、

それは自分の未熟さやダメさを

受け入れることや、

そのままを愛すると言うことが、

とても重要だったということでした。

私の魅力って何?

多分、多くの人が思うこと。

自分のことは案外見えにくくて

他人の目から見た方が

分かりやすい部分かもしれない。

それは、自分の匂いは、

当たり前になりすぎていて、

分かりにくいことに似ている気がする。

ありのままなんて、

とても無理だよって感じる

その中にある魅力。

人によって理解の仕方が違うから

言葉で説明できないような

そんな場合もあると思う。

そういう時は感覚的に捉えたり

感じてみたりすると良いかもしれない。

頭で考えてわかる人もいれば

胸の中でホワッと感じることもあれば

腹の中でこういうことかもって

分かることもある。

それが、前進するための活力になる

だから、分からない時は、

身近な人やあなたを理解してくれる人に

聞いてみると良いかもしれません。

ありのままは、内側の輝きを生かす原点

自然界の生物は、

ありのままに生きていて、

誰もかっこつけたりしてない。

カッコよく見える瞬間はあるかもしれないけど

カッコつけてるライオンは見たことがない。

むしろ、ダルそうに日陰で寝てるイメージ・・・笑

木の枝はゴツゴツと

いろんな方向に勝手に伸びるし、

草たちは

好き勝手に伸び放題している。

それは、自然体の最も生き生きした姿。

そこに生きる活力があって

荒削りな魅力がある。

そこが原点。

その姿は

誰かを威嚇することもなく

自然体で癒しを与えてくれるようなもの。

え?庭は手入れした方が美しい?

そうかもね。

それは、誰かの好みに沿って

美しく作られた姿。

確かに美しいよ。

プロデュースされたアイドル

映画の中の俳優

自然の姿というよりは

作られた幻想の姿かのように。

それは、草木にとっても良いものなら

素敵なことですよね。

その個性を理解して

その子達の良さを

引き出しているかどうか。

美しい庭のベースにあるのは

そこに植えられた草や木が

健康だからこその姿。

植木屋さんは、

どの木をどのタイミングで選定したら

元気に育つかをよく知っている。

その草や木のもつ特徴を理解して

生かし方を知っている。

生命力のある美しさは、

内面から出る輝きを伴っている。

特性を知らないで

形だけを真似して木を切っても

それは木を殺してしまうかもしれない。

だから、ありのままを見つめ

その魅力を心の奥底から

純粋に味わい、知っていくことが必要で。

その魅力には、

弱い部分や汚い部分も含まれる。

むしろ、そこが

要と言っても良いくらいで、

臭みをどう活かすかで

個性が際立つかのような。

それが本当に大切なことだと思う。

完璧さを目指したくなるのは、枯渇したものがあるから・・?

人は誰しも完全ではない。

何かが欠けた状態で生まれてくる。

完璧を目指し、

努力し腕を磨いている人・・・

それはそれで素敵なことですよね。

それを否定したいのではないけれど、

忘れないでおきたいことは、

未熟さの中にあるボロボロな姿の中に、

愛おしさや魅力を感じること。

そこが原点だから。

その感覚が大事だということ。

そうだったのかって

涙と共に感じられたから。

ダメさを知ってもなお

友達でいられる人と

そうでない人はいて

それはそういうものだと思う。

批判的な心から生まれた綺麗ごとは

言葉自体は美しくても

どこか冷たさが漂う。

たとえ形は美しくても

形だけの美しさは

あまり好きになれなかった。

比較や競争の世界が

生み出すものは

形だけは美しかったりする。

そんなことを感じることがあった。

ツンとすました美人より

すっぴんで笑い転げる素直な人が好き。

そんな感じに似ているかもしれない。

形だけ整えればいいんじゃない。

不完全なありのままを

受け入れることが基盤になっている。

その状態を愛することが

核として内側にあるかどうかで

変化するものがある。

完璧など目指して何になるのだろう。

止めたりはしないし

それが楽しいなら良いのかもしれない。

ただ、それは、

目標が次々と変わっていくだけで

永遠に終わりなんてないような気がする。

競争に駆られ

誰となにを張り合うのだろう。

それは、もしかしたら、

自分を受け止められてない姿かもしれない。

・・・なんてね!笑

ちょっと辛口でごめんね。

積極的に嫌うのではないけれど、

すべての人を好きになれなくても良いように、

不完全だからいい。

ありのままを受け入れているから

スタートできる。

そんなものもあるよなって感じました。

もっと、感情に素直でいていい。

自分を許し、

受け止めるということ。

間違ってるものは間違ってるし、

嫌なものは嫌でいい。

だって、そうなのだもの。笑!

それはそれでいいよって

受け入れることも大事なことだなって。

感情は道しるべだから。

感じるためについていて、

その感情が湧いてくるのには

必ず大切な意味がある。

ただ、振り回されると大変だから

行動に移す時には

よく考えた方が良い部分もあるのだと思う。

感情の役割、思考の役割、感覚の役割。

それぞれの役割があって、

使い方には個人の癖があるから

場面ごとに意識的に使い分ける・・・。

グルジェフのことは、難しすぎて

理解しきれないけど

生きていく智慧として学べることがあるし、

やっぱり単純に面白いなと思います。・・笑

実際、世の中には許せないことも沢山ある。

いちいち声を張り上げたり

喧嘩しようとは思わないけどさ。

一人一人の心の在り方が問われる

世の中にある闇は

本当に人間の仕業なのだろうかと思う程に

酷いことも行われていて、

それを知ってしまったら、

許すことも受け入れることも

到底無理だと感じるようなこともある。

子供の誘拐とか・・

その先に待ち受けることとか・・。

これは、調べればわかることだけれど、

到底、許せるものではない。

高い視点で見たら、

人口削減が正義だというような

見方もあるようだけれど、

そこは人間としての本能で違うと感じる。

このところ、

調和という言葉が用いられているのを

よく耳にする。

そして、聖徳太子の

「和をもって貴しとなす」という言葉も好まれる。

和すること・・・

和というのは、

足し算の解としても使われる言葉だけれど、

単純に足し合わせるということではなくて、

実際には、お互いのもっている

自分らしさを尊重しながら

譲れる部分を譲り、

敵対せずに折り合いをつけていく

というようなことなのだろうかと・・・。

もっと、深い意味もあるのかもしれないけど。

ところで、

このような許しがたい残虐性とは

どのように和することができるのだろう。

到底受け入れられないようなこと。

それはおそらく、

切り捨てても切り捨てても

どこからか出てくるようなもの。

それは、ティクナットハンが

枝の左側を切り捨てても

また左側が出てくることに

例えたことを思い出す。

国がきちんと機能していたら、

司法で解決していくことなのだろう・・。

そのためには、きちんと闇に光を

当てていく必要があって・・

それぞれが、それぞれの役割を

きちんと果たすことができるということは

とても大切なことで、

マスコミが機能することや

権力ある立場に立つ人達の

一人一人が不正に負けない精神性を

持つことが必要なのだろう。

武士は武力を身に着けながら

同時に高い精神性を掲げていたように

力を持つ存在にこそ、

社会を守る責任が伴うことが

自覚されるような教育も大切なことだと思う。

心の扱い方、感情の取り扱い方

そのようなことを身に付けることが

一番必要とされている。

そんな風に感じます。

精神性を高めていくためには、

自分のダメさを受け入れて

等身大を愛するということも

含まれるのだと感じています。

なぜなら、等身大で居られないと

そこから先に進めないから。

誰だって弱い部分も持っているし、

冷たい部分もある。

そんな嫌になるところも受け止める。

すぐに受け入れられないことだって

多分あるけど、

時間をかけて向き合っていく。

まずは受け止めるということ。

「型」について思うこと

心を見つめることを始めると

これが「美しい在り方」とか

「中庸が大切」とか

「型」から入ろうとしてしまうことが

もしかしたらあるかもしれない。

型は当てはめるものだから、

「外れてるか、外れてないか」

という囚われをもたらす。

それは、知らないうちに批判の

原因になってしまったりして・・

いつの間にか批判的な見方で

できてないことを突くような見方を

してしまうことに結びつくと

苦しみを生み出します。

型は、結果として辿り着くもので、

当てはめるためのものじゃない。

そんな気がします。

一番大事なのは

自分を受け入れることで

その過程の中で優しさが現れ、

自然な在り方ができ、

ありのままが美しさとして現れるという

結果にたどり着くのかもしれません。

初めから外見だけを真似して

美しさという「型」に当てはめて

できるようなものじゃない・・・

何度も繰り返しますが、

大切なことは、見たくないことも含めて、

自分のありのままを受け入れること。

もっと肩の力を抜いて楽にして、

かっこつけなくていいということですね!

少し体の緊張が緩んでますように。

今日もお読みくださいまして、ありがとうございました。

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