
こんにちは、hanaです。
私の周りでは花粉症に
悩んでいる人が多いですが、大丈夫ですか?
ちなみに、私は元気です!
花粉には鈍感なのかも・・?笑
それでは、今週も二時間瞑想をしたので、
記録を残していきたいと思います。
令和7年3月8日の2時間瞑想
主観的に感じた内容を
思い出したまま記録しています。
時間が過ぎるのがやけに長く感じた。
集中力を持続することが
どんどん難しくなっていった。
1時間過ぎた頃には、
時間ばかりが気になるようになってしまった。
足腰の辛さは感じないけれど、
上半身の落ち着かない感じは思考と連動しているようだった。
考えたくもないのに、次々に浮かび上がる思考を
気づいては手放し、気づいては手放し繰り返していた。
同じようなことばかりが浮かび上がってきた。
残り20分になると、20秒ぐらい集中するのも
大変なことに気がついた。
集中力を持続するために、数を数えることにした。
1分は60秒、10分は600秒、
残り20分なら1200秒
1200数えれば終わる。
1から順番に数え始めるけれど、
20も数えないうちに靄に包まれるように、
自分の意識が消えて、どこかに行っている。
「・・あれ、数えてたはずなのに・・。」
また、何秒だかわからなくなってしまった。
数を数えると言うことすらできなくなっていた。
意識が朦朧としているようで、
靄の中に消えていくような感覚に近かった。
眠ってはいないけれど、
いつの間にか見失ってしまう感じ。
自分の無力感を感じた。
まだまだだなぁ・・・。
瞑想していること自体が
喜びでありつつも肉体的には苦痛でもあり、
終わったときには、ほっとして
布団に潜り込んで眠ってしまった。
令和7年3月9日の二時間瞑想
座り始めてから少しずつ上半身の力が抜けていく。
はじめの一時間は何をしていたのか。
思考が浮かんでは消えて浮かんでは消えて
流れるに任せていて。
意識はあったけれど、集中するというよりは
ぼーっと眺めている感じで
あまりはっきりとした記憶がない。
どんな思考が浮かんだかもはっきりしない。
一時間が過ぎると、少し疲れてきた。
その頃から、意識が浅くなってきて
顕在意識ではっきり識別できる感じになってきた。
明瞭な状態で意識を保つ方が
エネルギーを消耗する気がした。
思考は、時々、流れている。
それは、水流に乗って流れてくる木の葉のように、
時々、現れては去っていく。
感情は静かだった。
本能、、体から湧き上がる感覚も流れている。
自分の中は流動していて、
細かく振動しているようで、すべては流れている。
少しずつ疲れてくる。
意識をどこに向けよう。
自然に向かいやすいのは呼吸だけれど、
呼吸はあまり意識したくない。
自分の内側で問答が始まる。
瞑想中の問答
自分を探す。
観察しているのは自分。
観察されているものは自分でない。
観察している自分に焦点を当てると
観察された瞬間に私でなくなり
空を掴もうとするようにするりと逃げていく。
自分はある。
けれどつかめない。
認識できない。
けれどいる。
見えない、聞こえない
とても静かだけれど
ここにいる。
いつもいる。
離れることはない。
いることはわかるけれど
それは「認識」ができるから、
している存在がいるということ。
それ自体は形がない。
色も匂いも音も味も感触もない。
『ただ、「今ここ」で認識していること』を認識していると
不思議な安心感に包まれる。
幸福感に包まれる。
それはまるで暗闇の中で見る光のような
温かくて優しくて安心するような感覚。
・・・この感覚があるから、
私は安心していられる。
これがなければ
この世界を生きることは
不安と緊張を強いられることだろう。
私の内側にある温かいもの。
掴みどころのないエネルギー。
ただ、感じられないのに
感じられるもの。
この内なる安心感と優しさに
私は守られている。
だから、1人でいられるんだ。
この感覚と繋がれなかったら
おそらく1人でいることは怖いのではないだろうか。
不安に苛まれる人は
これと繋がることが
分からないのではないだろうか。
暗闇を怖がる人、静寂が苦手な人
空白の何もない時間を嫌う人
スケジュールを隅から隅まで埋めて
何かで自分を満たそうとする人・・・。
非常に漠然とした感覚で
そんなことを感じた。
残り20分。
また、キツくなって残り時間が気になってきた。
昨日はできなかったけれど、今日はできるだろうか。
数を数えること。
1200秒。20分。
数えている方が時間の感覚がわかりやすい。
今日は数えられる。。
持続性注意が働かせられる。
今日は1200まで数えられた。
時計を確認すると丁度20分だった。
注意機能のこと
何かに意識を集中させ続けること。
これは、注意機能の一種で、
持続性注意に分類されている。
専門書の内容を確認してみる。
注意とは
注意の定義は研究者によって微妙に異なっており、
統一された見解は今のところない。
石合は、注意は覚醒状態においての適切な外的刺激、
内的刺激(知覚、思考など)への
意識の集中、持続、移動の過程としている。
注意を集中させると記憶成績が向上する。
ある対象に注意を向けるとその刺激に対する感度が高まるなど、
注意は認知、記憶、学習など高次脳機能と密接にかかわっている。
高次脳機能障害 長谷川賢一 編著 p46-47より
注意の分類
注意の定義が異なるように分類も諸家により異なる。
御嶺は注意についての概念を総括し、
覚醒水準、選択機能、容量の3つに分類した。
覚醒水準とは注意の強度と持続性を、
選択機能とは多くの刺激の中から特定の刺激に注意を向けることをさし、
容量とはある特定の作業に分配される注意の量・努力を意味している。
また、注意には空間に方向性をもつ注意(方向性注意)と
方向性をもたない注意(汎用性注意)があるとされており、
これらをふまえて注意を障害との関わりにおいてまとめると表2-9のようになる。
高次脳機能障害 長谷川賢一 p46-47より

持続性注意は1つのことに集中し続ける力であり、
注意の中でも最も基礎的な機能で、
上の表では、覚醒水準ともされている。
瞑想で要求されるのは、この力。
この力が上がることで、
脳機能は全般的に底上げされる。
注意力とは、最も基礎になる力であり、
ここがしっかりとしていなければ、
それより上位の機能は、影響を受けると言われます。
選択性注意は、
雑多な刺激の中から特定のものを抽出する機能。
ここには挙げられていませんが、
注意機能の分類で多く用いられるものに
転導性注意と呼ばれるものがあり、
これは、注意を切り替える機能。
分配性注意は、二重課題をこなす能力。
電話をしながらメモを取る、車を運転しながら話をする、
こんなふうに2つの課題を同時進行で進める力。
通常、臨床で専門用語として多く用いられるのは、
持続性、選択性、転導性、分配性の4種です。
集中し続けると言うのは、
エネルギーを注ぎ続けるということで、とても疲れる。
さらに、その上位の機能として、
記憶力や理解力などの機能が存在し、
持続性注意がきちんと機能しなければ、
物事を記憶することができない。
それは、例えば、
授業中に先生の言葉に注意していなければ、
その内容は頭に入らないというように。
注意を向けられるから記憶できる。
記憶できるから理解につながる。
たった数時間前の出来事なのに、
瞑想していたときの記憶が曖昧なのは、
覚醒水準が下がり、
持続性注意が十分に機能していなかったからだろう。
姿勢に気をとられているときの方が、
まだ意識を維持できたのに、
意識自体に意識を向けようとすると、
とても疲れてしまう。
これは一体なぜなのだろう。
姿勢を意識していた頃は、
肉体的な苦痛刺激が原因で、
リラックスすることを妨げ、
覚醒水準が高かったためかもしれない。
深い瞑想では、脳波が切り替わると言われています。
通常の覚醒状態よりも低い覚醒状態。
そこに入っている時が、
瞑想がうまく行っているとするなら、
数が数えられないというのは、
ある意味、深く入れていたとも解釈できるのか・・。
数を数えることは、持続性注意の評価として
用いられることがありますので、
一つの参考にはなるかと。
グルジェフのワークより
グルジェフのワークから
瞑想の参考になりそうな記述を見つけたので
備忘録として記載しておきます。
たしかに、自己観察を積み重ねるには
何年もかかるかもしれないが、
日常生活の中で正しく行うことができるので、
矛盾しているようではあるが、
全く時間をとらないとも言えるのである。
自己認識の過程が身体的な習慣の観察から
情緒的反応や思考パターンの観察へと進むに従い、
自己想起の瞬間、つまり意識のより高次の段階の閃きが生じ、
それは時を経るにつれて、
ますます頻繁にはっきりとしたものになっていくだろう。
グルジェフ・ワーク p164より
グルジェフのワークは、出家する必要がなく、
むしろ普通の日常生活の中で実践することができることが、
特徴の一つでもあります。
その理由は、<本質>と<人格>の葛藤を
日常の諸問題の中で見つめることなども
重要な役割を果たすなど、
日常の出来事の中での自己発見の道のり
とも言えるようなものであるようです。
私は、グルジェフの書籍を読む以前から
1時間未満の短い時間の瞑想を
継続することを習慣にしていたのですが、
その中で、数分間のわずかな時間の瞑想でも、
自分の思考パターンへの気づきや
惹起されやすい感情のパターンと状況や、
とりやすい姿勢への気づきが
日常の中で起こりやすくなることを感じてきました。
その中で得られる「気づき」の瞬間が、
高次の段階の閃きというのも、表現方法の違いはあれど、
私の感覚的な理解と一致していて、
グルジェフが述べてくれることで心強く感じたところです。
このグルジェフのワークについての
記述を読んでいて感じることは、
グルジェフの注意力が
尋常でなく秀でていることです。
瞬間瞬間への注意が鋭く強く、しかも持続できる。
これは、ワークの内容から推測できます。
注意力というのは、1つの重要な要素だと考えられます。
ヴィパッサナー瞑想においても、
「今ここ」への注意を絶え間なく継続することで
サマディ―(三昧)に至ると
書籍に記述されていたと記憶しています。
瞬間瞬間への注意。
特にその意識する瞬間がどんどん短く
刹那的になっていき、極限に達すると見えてくる世界。
絶え間ない注意を継続する・・
とても難易度が高くて、
私にはとても到達できなそうですが。笑
シンプルだけど、めちゃくちゃ難しいです。
さらに、興味深い記述があったのでご紹介させて頂きます。
グルジェフ・ワークの人たちが、
西洋流にまっすぐな背もたれのついた椅子に
腰をかけて行をしているのでなかったら、
つまりその方法だけを見れば、
彼らは、朝の沈黙の行にあるヴィパシャナの瞑想者たちと
ほとんど区別できないにちがいない。
意図も方法も仏教徒の基本的な行法である止観に似通っている
(たぶんにこれを源として導きだされたものである)。
最初のうち、心は雑音と動揺に満ちているのが普通であり、
内面を沈黙に導こうとする試みや
感覚に注意力を集中しようとする試みに
ことごとく逆らおうとする。
心の中のものとの自己同化が減少するにつれて、
明晰な意識の瞬間が訪れる可能性が出てくる。
瞑想は深まるほどに、生活の中に起こる
自己想起の瞬間の確認という点で役立つものとなりうる。
またそれに伴い自己想起のほうもより強度を増し、
より信頼の置けるものとなるのである。
自己想起の成果が蓄積されるにつれ、
自分の様々な現れ方の認識も増大していく。
こうして<本質>と<人格>間の葛藤を特徴づける
一種の熱と光を生じる状態が生まれてくる。
グルジェフ・ワーク p169-170より
グルジェフ・ワークもまた、
ヴィパッサナー瞑想の影響を受けたものだということの
この凄さ・・・。
エニアグラムから感じた瞑想との類似性は
やはりルーツの一つがヴィパッサナー瞑想に
あった可能性が高いことからだったのですね。
・・・私の直感って、結構冴えてるかも。笑!
やはり、ヴィパッサナー瞑想のもたらすものは
時代を超えて本物だということを
伝えてくれている気がします。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
お読みくださいまして、ありがとうございました。