八正道の正業について。

今回は、八正道の正業について

相川圭子氏の書籍からまとめてみます。

八正道、そして正見については、こちらをどうぞ。

ここまでの復習を簡単に。

八正道とは、

正見、正思、正語、正業、

正命、正精進、正念、正定から成り、

段階的を追って理解を深めていくこと

が書かれていました。

【正見】

ただ、見るということ

あるがままに見る、ということ

とらわれずに見る、ということ

【正思】

過去にも未来にもとらわれない

ただ、「今にいる」ことができる

正思のまとめはこちらです。

【正語】

愛のある純粋な言葉で

思いやりを持った「愛語」

心からの、嘘のない言葉

愛語を口にするように

正語のまとめはこちらです。

それでは、今日は、正業について見ていきましょう。

【 正業 】について

殺さず、傷めず、強いず、偏らず

心を、体を正しく使う

(相川圭子 八正道 より)

「正しい行動」とは何でしょうか。

それは正しいカルマを積むということです。

カルマは行為のことです。

カルマはヒンディ語で、日本語では業(ごう)といいます。

善業と悪業があり、正業つまりよい業、カルマを積むことです。

体、口(言葉)、思いの業があります。

ここでは、特に体の行為について述べています。

体の行為が現れる前に、

思いのカルマや言葉のカルマがすでにあります。

正業とは、心身を正しく使うということです。

その判断基準は、

「人の迷惑や人の命の妨げになることはしない」ということです。

これを守り、体と心に悪いカルマを刻まないようにします。

具体的には、次の五つの戒めがあります。

㈠不殺生。(ふせっしょう)生き物を殺してはならない。

㈡不偸盗。(ふちゅうとう)他人のものを盗んではならない。

㈢不邪淫。(ふじゃいん)みだらなことをしてはならない。

㈣不妄語。(ふもうご)嘘をついてはならない。

㈤不飲酒(ふおんじゅ)酒を飲んではならない。

相川圭子 八正道 p94より

八正道は、

悟りに向かうための教えであり、

それは、行為を通して

宇宙的な愛を体現する状態に近づくこととも

言えるのかもしれません。

幸せな満たされた状態というのは、

愛に満たされた状態であるとも言う事ができます。

それは、世俗的な欲望を満たす愛ではなく、

もっと、根源的な源から湧き出る愛のことで、

魂との繋がりを感じる愛とも言えます。

外側に愛を求めても、

それは本質ではないため、

完全に満たされることはないのかもしれません。

この現実世界で得たものは、

絶えず変化していて、消えゆくものでもある、

幻想のようなものかもしれません。

私たちの魂の本質もまた愛であり、

魂の想いに忠実であることは、

自然な流れとして、

人に迷惑をかけない、傷つけない行為、

善業となっていく。

そして、内側の本当の想いを

体現していくことは、

魂の喜びであり、自分自身が輝き、

その輝きで周囲も幸せにすることができ、

結果的に幸せになっていくという

ことなのかもしれません。

それは、外側に愛を探すのではなく、

自分の内側が愛の発信源になっていく

ということでもあるのではないでしょうか。

そのように考えていくと、

行為に対する善悪の区別や

戒めが何故あるのかが自ずと見えてきます。

内側の魂の想いからの行為は、

善業になっていくということ。

よい行為というのを意識しないで行うと、

エゴが喜ぶ行為になることがあります。

親切にしているつもりであっても、間違った親切になり、

かえって迷惑になることもあります。

見返りを期待し、人をコントロールするような親切は、

本当の意味での善行ではありません。

例えば、ボランティアというのは素晴らしい心がけです。

人と人が助け合うことはとても大切です。

そのボランティアを、捧げる気持ち、

宇宙的レベルの愛から行うと素晴らしい善行です。

それが、無意識であっても、よく思われたい、

名声を得たいという気持ちが入ってしまうと、

純粋な善行ではなくなってしまいます。

気づきを持って、愛から行為をしていくのがよいのです。

相手に執着したり、相手から執着されたりしない、

宇宙的愛のレベルの善行になるのがよいのです。

相川圭子 八正道 p99より

「心」に翻弄されるのではなく、自分が心に気づいて、

選択して、心をコントロールできる人間になりましょう。

必要なときには心を使って考え、

必要でないときは心を外して無心でいます。

この生き方そのものが、気づきを持って、

人を幸せにする、まさに自分のカルマを浄める

「行動の瞑想」です。

相川圭子 八正道 p100より

日常の行為そのものを気づきをもって行う。

とても、高度な教えです。

悟りに近づくための教えなので、

普通に社会生活を送る中で

酒を飲んではいけない!とか、

結婚してはいけない!とか、

そういうわけではないので、

そこはお気になさらずで良いのではないでしょうか。笑

一方で、耳の痛い戒めは、

幸せに近づくための教えでもあり、

意識を高めていきたい方は、

可能な範囲で取り入れてみると

良さそうな気がします。

例えば、お酒は集中力を低下させ、

気づきを阻害するとも書かれていましたので。

もちろん、

この内容を実行するかどうかは、

個人の意志で決めることです。

自己判断で自己責任なのですね。

宇宙の法則で、

自分のしたことが返ってくるので、

信じる信じないに関わらず、

結果を摘み取る仕組みになっている。

それを伝えてくれているというのは、

高い視点から眺めた時に

愛情深い教えだな・・と

感謝の想いを感じます。

「正しい行動」と聞くと、何かものすごく

「正しくないといけない」と考えてしまう人もいます。

もちろん社会のなかで、

道徳的に正しい行動をすることは基本です。

ただ「正しい」の意味がその人のこだわりや価値観によって

変わってくることがあり、そこを注意する必要があります。

ー中略ー

正しい行為の勤めとは、

神聖さを目覚めさせて生きていくということです。

そのなかには、先ほど述べましたように、

してはいけない行為があります。

そして、勤める行為があります。

それは、心を浄め、体を浄め、カルマを浄める行為です。

無意識で悪いカルマを積むことなく、

意識的によいカルマ、功徳を積む行為です。

相川圭子 八正道 p103より

神聖さを目覚めさせるというのは、

心に翻弄されるのでなく、

その奥に存在する、内在神、

つまり魂の声を聞き、

そこに従うという在り方で、

気づきをもって歩みを進める

ということなのかなとも思いました。

これは、相川氏のように悟りを経験した人なら、

神との繋がりがあるので、考えなくても、

根源のエネルギーを直に感じ取る中で、

これが正しいという

識別が正確にできるのかもしれませんが、

私には分からないことです。

私は、悟りなど遠い世界という感じなので、

せめて、自分の良心に則して生きたいなと思います。

高度な道具を持っていても、

使い方を誤れば悲惨な事態をもたらしますよね。

それは、原子力の使い方のように

現代の社会を見回せば見えてきます。

善行というのは、

決して自分の自由を縛る戒律ではなく、

平和に向かうための智慧であり、

幸福度を高める生き方に

つながることなのだと感じます。

まず心(マインド)を超えた高次元の存在につながり、

そこに向かうことが真の意味で

人が行わなければならない「正しい行動」です。

真理を知って、覚醒していくのです。

ただ無知のままで生きるのではなく、

宇宙の真理、神を知っていくのです。

相川圭子 八正道 p105

なぜ、善業を行う必要があるのかというと、

魂の声を聞くために、

心を浄めていく事が必要なのだと思います。

悪業を積むと、心に汚れが積もっていき、

魂の声が曇って聞こえなくなる。

高次の存在につながるためには、

様々なカルマを浄め、

意識を高めて行かないと、

共振できないのだろうなと思います。

人間には三大欲求があります。

それは、食欲、性欲、睡眠欲の三つです。

これらの感覚の執着にとらわれたままではいけません。

三大欲求に共通していえることは

「過ぎたるは及ばざるが如し」です。

相川圭子 八正道 p112 より

「今にいる」ことは、中庸の恩恵です。

真ん中にいることで、

心に翻弄されず、欲望に翻弄されず、

人生を神の意志とともに進んでいく事ができます。

相川圭子 八正道 p114 より

バランス感覚を養うことが大切なのですね。

欲に振り回されると、体や心が壊れていく。

それは、結果的に健康的な生活から

遠ざかることでもあります。

体は資本なので、大切にしたいですね。

これは、なんとなく感じるのですが、

人によって、欲求の感じ方には差があって、

どうしても我慢できないというほどに、

欲求を強く感じる人も世の中にいるようです。

逆に、禁欲的な戒めに対し、

あまり抵抗感がなく、

すんなり受け入れられるタイプの人も存在します。

これは、ホルモンバランスなどの個体差や、

これまでの生活習慣などもあるのかもしれません。

欲求がとても強くて抑えられないタイプの人が

自分を抑えて我慢しようとすると、

かえって無理をきたしてストレス過多になる

可能性もあるように感じます。

そういうタイプの人は、

そのことを自覚して、自分にできる範囲で

バランスを取ることが

現実的なのではないかなと思いました。

どんな人も、おいしいものは

食べたいのではないかしら・・?

せっかく生まれてきたのだから、

楽しむことも大切ですよね。

三大欲求は、生存のための欲求ともいう事ができ、

必要だから与えられているのだと思うので、

排除するというよりも、

欲があることを受け入れながら、

行き過ぎないように折り合いをつけて

付き合うというのが大切なのかなと。

正業について、

いろいろと、腑に落ちることが

多いなあと感じました。

あなたは、どう思いましたか?

たまに、振り返るのもよいことですね。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございました!

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