八正道の正定について。

相川圭子氏の書籍から八正道についてまとめています。

今回は、正念についてです。

ここまでの復習を簡単に。

八正道とは、

正見、正思、正語、正業、

正命、正精進、正念、正定から成り、

段階的を追って理解を深めていくこと

が書かれていました。

【正見】

ただ、見るということ

あるがままに見る、ということ

とらわれずに見る、ということ

八正道と正見については、こちらをどうぞ。

【正思】

過去にも未来にもとらわれない

ただ、「今にいる」ことができる

正思のまとめはこちらです。

【正語】

愛のある純粋な言葉で

思いやりを持った「愛語」

心からの、嘘のない言葉

愛語を口にするように

正語のまとめはこちらです。

【正業】

殺さず、傷めず、強いず、偏らず

心を、体を正しく使う

正業のまとめはこちらです。

【正命】

人を幸せにする生業を

愛を積む生活を

正命のまとめはこちらです。

【正精進】

外側も内側も教えを実践する

常によい行為を繰り返す

正精進のまとめはこちらです。

【正念】

深く、強く、思い続ける

静かで深い集中を続ける

正念のまとめはこちらです。

それでは今日は、正定について見ていきましょう。

【 正定 】について

平和で静かなところに留まる

何にもとらわれず

平和で自由に生きる

(相川圭子 八正道 より)

八正道の最後のステップは、正定(しょうじょう)です。

正念を行い、心や体に執着せず、「今にいる」ことができてこそ、

正念からつながって正定に到達します。

深い瞑想が起きるということでもあります。

正定は尊い実践です。「今にいる」ことが続き、

ひとつのところに留まることです。

「定」を仏教では精神統一や瞑想と訳しているようです。

サンスクリット語では、サマディとなっています。

サマディとは「同じとき」という意味です。

すべての心が消え去り、何かの対象と一体になり、

その状態がずっと続くことです。

サマディに向かうには、外の行為と内側の行為を正し、

心身を浄め、感覚を統制して(プラティアハーラ)、

精神を統一して(ダラーナ)、それについて知り尽くし、

瞑想を行い(ディヤーナ)、

さらにその対象と一体になるサマディになります。

内側のエネルギーのセンターを知るサマディがあり、

さらに進化して自分の源、自己を知るサマディ、

さらに神と一体になる究極のサマディがあります。

それは体と心を超えて、死を超えて、魂、

さらには創造の源、神と一体になっていくのです。

ですから「定」、つまりサマディには段階があるのです。

相川圭子 八正道 p184より

正定とは、サンスクリット語でいうサマディ。

「同じとき」という意味で、

瞑想の対象と一体になり、

段階を経て、

最後は神と一体になる・・・。

気づきを頂きながら、瞑想が深まっていくと

いずれはそのような体験が起こるようです。

そこにたどり着くには、

様々な手法があるようです。

なんだか、夢物語みたいな話ですよね。

現実にそのような体験をされているのは、

本当に凄いことです。

自分が定の状態になる、

そしてひとつのエネルギーと一体になるとは、

どのようなことなのでしょうか。

体のなかにはいろいろなエネルギーのセンターがあります。

また、さまざまな心の働きがあります。

心配、恐れ、動きたい、怒り、悲しみ、理解と、

こうした心があります。

また記憶の心は、刺激で思いが生まれます。

記憶の心とエネルギーがコンタクトして

目ざめ働き出すのです。

誰にでも欲望があります。

「あれがしたい。これをしたい」と思います。

「これが欲しい。あれを味わいたい。これを体験したい。」と思います。

これらの欲望の心に、エネルギーが供給され、動いていくのです。

そしてその心が、「私、私」とエゴを主張します。

だから「ただ、今にいる」ということができないのです。

それらの欲望を悟りに向けます。

ヒマラヤ秘教はそれらを取り除いて深い瞑想を起こしていき、

本質に導くのです。

相川圭子 八正道 p186より

記憶と結びつき、それに意識を向けると

そこにエネルギーが注がれていく。

意識を向けられる対象に

エネルギーが自然に注がれていくので、

何に意識を向けるかに意識的である

必要性があるなと感じます。

体は小宇宙であり、

七つのクオリティの違う体のエネルギーのセンターが

背骨のところにあります。

七つの種類のエネルギーの体は、

下から上に土の体、水の体、火の体、風の体、空の体

であり、さらにその上に、音の体と光の体があります。

土の体=肉体の体を浄化し、それと一体になるサマディになり、

それを浄化して知ります。

相川圭子 八正道 p187より

自分の体に意識を向けるにも、

様々な段階と方法がある。

この辺りは、とても専門的な内容に

なってくる感じですね。

私は、そこまで深い瞑想は

今のところ行っていません。

実際に行うかどうかは別にして、

深い瞑想についての知識を知ることは、

今後、全ての人が絶対に経験する

死という体験について考えるヒントにもなるので、

知っておくことは、有意義だと感じています。

今生きているこの世も仮の世なので、

いつか体を脱いで、この世界で作り上げた物質的なもの、

心での成果、社会での地位や名誉など

すべてこの世に置いて、旅だって行かなければなりません。

深い瞑想、そしてサマディの修行をすれば、

心身の執着が取れて、楽にそれらのことも

受け入れられるようになります。

そのときには、死はもはや「怖いもの」ではありません。

それが、死を超えるということです。

相川圭子 八正道 p193より

生と死を超える行を成功させている方は、

生命活動やエネルギーのこと、そして、

死が何かをよくご存知なのでしょう。

通常、意識下ではコントロールできない、

心臓や腎臓や肝臓の働きなど、

生理機能にまでアプローチできるということですよね・・。

怖いと言う感情は知らないから出てくるので、

知り尽くしていれば、死ですらも、

ただの通過儀礼のようなものになるのかしら・・?

よく分かりませんが、恐怖はなくなるようです。

死を乗り越えるなんて、

並大抵のことではありませんよね。

八正道は悟りへの道です。

深い瞑想となり、サマディにたどり着くと、

そこには何もありません。

しかし、それはすべてを生み出す、創造の源です。

そこからすべてが生まれる永遠の存在です。

人はそこから生まれたのであり、そこに還るのです。

心や思い、体も変化して、

いずれは消えていくものだということがわかります。

自分の内側の中心が、

すべてが生まれた源とつながっていることもわかります。

相川圭子 八正道 p201より

何か、無からすべてが生まれたというと、

宇宙創生の話しのようでもあります。

ヒマラヤ秘教はヒマラヤ聖者によって創られたものですが、

真理は永遠であり、その教えは時代を超えて、

ヒマラヤの叡智として、人類の命を輝かせる教えなのです。

インドには出家をして真理を求める、

神に出会うという伝統があります。

ブッダの時代もそうでした。

ブッダはその道を選択して進んだのです。

そのなかで究極のサマディに達する人はほんのわずかなのです。

究極のサマディに達した聖者は真理をひもとき、

人々を救う力を得たのです。

現代のこの発達した素晴らしい社会のなかで、

今ヒマラヤ秘教の実践に出会え、幸せになることができます。

それは稀有なチャンスなのですが、

今、あなたの熱意で開かれる道なのです。

相川圭子 八正道 p205より

最後に、相川氏への感謝の気持ちを込めて、

読者さんへの相川氏からの

熱いメッセージを抜粋させて頂きました。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする