エニアグラムの原点。グルジェフの思想の続き。

こんにちはhanaです。

今、グルジェフの思想についての本を読んでいます。

まだ読書の途中なのですが、

内容が深くて、すごく面白い。

小さな文字で600ページもある本なので、

最後まで読んでからまとめようとすると

重要なことが多すぎて、まとめきれなそうなので

とりあえず途中経過で少しずつまとめたいと思います。

思わずメモを取りながら読んだ本です。

とても難しい部分もあって、

は?なんでこうなるの?・・笑

というような意味不明の部分も存在します。

特に、七の法則のところ・・・。

抽象的な概念としてなんとなくしか

理解できない難しさも秘めています。

これは、外国語を翻訳している影響や、

グルジェフ自体の用いる言葉が

難解なものが多かったであろうことや、

この本の著者はウスペンスキーという人物で

彼の理解の範囲で書かれていることもあると思います。

そんな感じなのですが、

自分の中で理解できたことや

重要と思われたところについて

まとめてみたいと思います。

グルジェフの思想の続き

エニアグラムとの関連で

重要そうな内容についてまとめます。

本質と人格という考え方

本質とは人間の内なる真実であり、人格は虚偽だ。

しかし人格が生長するにつれて、

本質は次第に自己を表現することはまれになり、

また弱くなり、そして本質は非常に初期の段階でその生長をやめ、

それ以上生長しないということもしばしば起こる。

成人の本質、非常に知的で、一般に認められている意味では、

この人間の内に我々が見るすべてのものは、

現実には<彼自身のものではない>ということだ。

人間の内の彼自身のもの、つまり彼の本質は、

普通彼の本能、または最も単純な感情の中でのみ顕現する。

とはいえ、本質が人格と平行して生長するケースもあるにはある。

そのようなケースは、

とりわけ文化生活という環境のもとでは非常にまれな例だ。

絶え間ない闘争と危険に満ちた困難な条件のもとで

自然に近い生き方をする者の方が、

その本質が発達する可能性は大きいのだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p263

グルジェフは、1人の人物の中には複数の私がいると伝えています。

この複数の私というのは人格のことで、

はじめは、よく分からず多重人格障害??なんて思ったのですが、笑

読み進めると、どうやらそうではなくて

社会に出た時に生じる自分自身の矛盾のことのようです。

そういえば、エニアグラムの性格の捉え方は

複数あったので、そのことかなと。

用いられる言葉が違うので少し混乱しましたが、

後からこのことかしらと気づきました。

人はこの複数の私に通常気付いておらず無頓着であるそうです。

仕事中の自分、家族といる時の自分、友達といる時の自分、

みんな違いますよね。

なんとなく、その場の雰囲気や気分で

「仕事を一生懸命頑張ります。」と言った。

でも実際は、頑張れなくて遊びに行っている。

そして、家に帰ってくると、

「いやあ、あの時はそう言うしかなかった。」と

辻褄合わせの言い訳をする。

複数の人格を無意識に使い分けている。

そんな感じのことかなと。

それは、グルジェフが緩衝器と呼ぶ

都合の良い言い訳であったり解釈のようなもので

私達がその矛盾に気づかないように

無意識に振る舞っているためだそうです。

それに気付いてしまうと、機械人間は耐えられないので、

見て見ぬふりしているのだとか。

列車の緩衝器がどんなものか知っているね。

客車や貨車がぶつかりあうときのショックを小さくする装置だ。

もし緩衝器がなかったら、1つの車両が別の車両へ与えるショックは

非常に不快で危険なものになるだろう。

緩衝器はこのショックを和らげ、気にならない。

知覚できないくらいのものにする。

全く同様の装置が人間の内部にある。

それは自然によってではなく、

無意識的にとはいえ人間自身によってつくりだされたものだ。

それができた原因は、人間内部の多くの矛盾

ーー意見、感情、共感、言葉、動作なのど矛盾にある。

もし彼が生涯にわたって自己の内部のあらゆる矛盾を感じ取るとしたら、

今そうしているように平静に生き、行動することはできないだろう。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p250より

機械人間というのは、

自動的に生きている人たちのことで、

惑星システムの中で、

選択し行動しているかに見えるけれども、

実は眠っている人達のことで

世の中の実に多くの人がこの機械人間で、眠っているのだそうです。

戦争が起きてしまうのは、

多くの人が、この機械人間であるためで、

全ての人が機械人間でなければ、

戦争は起こせないのだそうです。

確かにそうですよね。

政府やマスコミの煽る恐怖に扇動の影響に気づき、

自分自身で思考して判断できる人が大多数なら、

戦争なんて行くかよってなる。

厄介なのは、機械人間は、夜寝ている時だけでなく、

行動している日中も、彼らは眠っていて、

悪いことをしていても、気づかないのだそうです。

本質と人格の違い

人間には生まれ持った本質の部分と

教育や文化の影響を受けて培われる人格を持っていて

人格というのは、例えば太郎くんや花子ちゃんのことであり、

私たちは、太郎くんや花子ちゃんが自分だと思っている。

目覚めるためにまずしなければならないとことは、

この人格と本質を切り離すことだそうです。

これは、瞑想で言語化によるラベリングで

分離していくことと同じことを言っているなと。

一般に、人間の本質は原始的で野蛮で幼稚であるか、

あるいは単に愚かであるかのどちらかだ。

本質の発達は自己修練にかかっているのだ。

自己修練における非常に重要な瞬間は、

自分の人格と本質とを識別し始める時点である。

自分の中の真の<私>、すなわち個体性は

その本質からのみ生長することができる。

個体性は、生長し、成熟した本質だとも言える。

しかし本質の生長を可能にするためには、まず第一に、

絶え間ない人格からの抑圧を弱めなければならない。

というのは、本質の生長を妨害するものは人格の中に含まれているからだ。

平均的な教養ある人間をとりあげてみると、非常に多くの場合、

彼の本質が受動的要素であるのに対し、

人格は能動的要素であることがわかるだろう。

この状態が変化しないで残っている限り、

彼の内的生長は始まることができない。

つまり、本質が能動的にならなければならないのだ。

そして、これは<緩衝器>がとり除かれるか

弱められるかしたときにだけ起こりうる。

なぜなら、<緩衝器>は人格が本質を服従させるための主要な武器だからだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p265

本質というのは、時に忘れられていて

5、6歳で生長が止まっていたり、

すでに死んでいるということもあるそうです。驚!!

教養レベルの低い自然の中で育った人の方が

本質が生長していることもあるけれど、

目覚めるためには知識も必要なので、

ただ単に本質だけが育っていてもダメなのだそうです。

つまり内的生長、自己修練のためには、

本質のある程度の強さとともに人格のある程度の発達も必要なのだ。

人格は<記録装置>と、

複数のセンターのある働きの結果である<緩衝器>とから成っている。

人格が十分に発達していないということは、

<記録装置>、すなわち自己修練の土台となるべき

知識、情報、材料を欠いているということだ。

知識のある程度の蓄積、

一定量の<自分のものではない>材料がなくては、

自己修練はもちろん、自己研究、

機械的な習慣との闘いさえ始めることはできない。

なぜなら、このようなワークをする理由や動機は何もなくなってしまうからだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p266より

両方を育てる必要がある。

本質と人格の両方がバランスよく育たなければ目覚めには至らず

目覚めるためには、相応の意識的努力が必要となるのだそうです。

つねに目覚めた状態でいることは至難の業だとのこと。

道徳と良心

道徳と良心とは全く異なったものだ。

ある良心は消して他の良心と矛盾することはない。

ある道徳はいつでも他の道徳と容易に矛盾しうるし、

それを完全に否定することができる。

<緩衝器>をもつ人間は非常に道徳的であるかもしれない。

またそれらの<緩衝器>は互いに非常に異なったものでもありうる。

これはつまり、二人の非常に道徳的な人間が

互いに非常に不道徳だと考えることもありうるということだ。

一般的には、ほとんど必然的にそうなる。

つまり、<道徳的>であればあるほど、

人は他の道徳的な人を<不道徳>と考えるのだ。

道徳という観念は良い行い、悪い行いという観念に結びついている。

しかし、善悪の観念は人によって常に異なり、

人間第一番、第二番、第三番においては常に主観的で、

しかもある時点あるいは状況にのみ関連している。

主観的な人間は普遍的な善悪の観念をもつことはできない。

主観的な人間にとっては、悪とは、

彼の欲望や興味や善の概念に反する全てのものだからだ。

主観的な人間には悪は存在しない、

ただ異なった善の概念が存在するだけだと言えるだろう。

悪のために故意に何かをやる人間は一人もいない。

誰もが自分の理解する善のために行動するのだ。

しかし誰もがそれを違ったふうに解釈しており、

その結果人々は、善のために互いに足をひっぱったり殺しあったりしているのだ。

原因はここでも全く同じ、つまり人がその中で生きている無知と深い眠りにある。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p256より

道徳というのは、地域や宗教、文化によって矛盾するもので、

良心というのは一貫していて

矛盾のないものだとグルジェフは述べています。

それは、良心は本質の想いと関係しているからではないかなって

個人的に感じるところではあります。

主観的な善悪と普遍的な善悪

機械人間は、客観視できず主観的な基準で判断しているために、

善悪は人それぞれに違ったものになってしまう。

自分にとって都合の良いことが善であり、そうでないものが悪となる。

本当の意味で客観視できるとは、

自己の矛盾に気づき、

都合の良いことも悪いことも、

言い訳という緩衝器に惑わされることなく受け止められることで、

本質と人格と切り離している状態のこと。

本当の良心とは結構厳しいものですね。

そして、人は目覚めていてはじめて、

そこに存在することができ、

何かを為すことができるようになる。

場当たり的に振る舞うのでなく、

恒久的な自分を持つことができる。

恒久的な目標と善悪の関係

「しかし善と悪は、人間から離れてそれ自体で存在しているのではないでしょうか」

とそこにいた誰かが聞いた。

(以下、グルジェフの返答)

そうだ。ただ、その問題は、我々から非常に離れており、

今すぐ理解しようとしてもあまり意味がない。

ただ一つのことを覚えておきなさい。

それは、人間にとって、善悪についてあるべき唯一の恒久的な観念は

進化の観念と結びついているということだ。

が、もちろん機械的な進化の観念とではなく。

意識的努力、自己の存在の変化、内的統一の創出、

そして恒久的な<私>の形成を通じての

人間の進化という観念と結びついているのだ。

善悪についての恒久的な観念は、

恒久的な目標と恒久的な理解との関連においてのみ形成することができる。

もし自分が眠っていることを悟り、目覚めたいと望むなら、

そのとき彼の覚醒を助けるものはすべて善であり、

彼を妨害するもの、彼の眠りを長びかせるものはすべて悪であることになる。

全く同様に、彼は他の人々にとっても

何が善であり何が悪であるかを理解するようになる。

彼らの覚醒を助けるものは善、それを妨害するものは悪なのだ。

しかし、これは目覚めたいと思っている者、

つまり自分が眠っているということを

理解している者にとってのみあてはまる。

自分が眠っていることを理解していない者、

覚醒への欲求をもつことのできない者は善悪を理解することはできない。

そして圧倒的多数の人々は自分は眠っているということを自覚していないし、

これからも決してしないであろう。

それゆえ、彼らには善悪は実際に存在しえないのだ。

これは一般に受け入れられている考えとは相容れない。

人々は、善悪はすべての人にとって同一であるにちがいなく、

それ以上に、善悪はあらゆる人に存在することに慣れているからだ。

しかし、現実には、善悪はほんの少数の人々、目標をもち、

その目標を追求するものにとってのみ存在するのだ。

この目標の追及を妨げるのが悪であり、助けるものが善なのだ。

奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論 p237より

恒久的な目標を持つためには目覚めている必要があり、

そうでなければ一貫性を保てない。

一貫性のある目標を持ってはじめて、

客観的で普遍的な善悪の判断ができるようになる。

恒久的な目標を持つためには

「私」が存在している必要がある。

グルジェフの思想から見えること

この書籍によると、グルジェフの言う目覚めとは

機械人間でいることから抜け出すこと。

本質に還り恒久的な自分であること。

そのためにはまず

自分自身の中にある矛盾を認めること。

自分の嫌いなところを見つめる勇気を持つこと。

緩衝器の存在、眠っていることに気づいていくこと。

人格と本質を分けること。

それは、自分自身に意識的であることでもある。

恒久的な自分の目的は、目覚めそのものであり、

それができてはじめて、システムの影響から抜け出し、

本質の私を生きられるようになる。

必然的に、目覚めという目的に沿っていることが善いことであり

沿っていないことが悪いこととなる。

ということが書かれていました。

とても表現が難解で理解することが難しい本なので、

自分なりに噛み砕いて書いているのですが、

私自身の解釈が正確でない可能性もありますので、

鵜呑みにしない方がいいです。

100人いれば100通りの解釈があるので。

興味のある方は、ご自身で本を読んでみてくださいね。

大まかにこんなことかなという印象が

伝えられたらと思います。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいましてありがとうございます。

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