本質と人格、そして二時間瞑想の記録

私たちは通常、

体を通して物事を経験しています。

感覚を通して体験して

感情が発生するのにまかせて

その状態を現実として認識しています。

目に映るもの

鼻にくる刺激

耳から聴こえる音

皮膚に触れる感触や温度

食べ物の味

全て神経を介して感じています。

怒っている

悲しんでいる

笑っている

喜んでいる

感情も体の反応です。

こんな風に体を通した経験。

通常の意識状態の時、

「私」は、ただ反応している。

外界の刺激を感じて感情が動き

そのことに反応して

発言や行動を選択している。

他者と現実を共有し

共通認識を持ったり、共感したり

時には喧嘩したり

反応を起こしあっている。

そこには特定のパターンがあり

反応の癖がありますが

通常、そんなことを意識して

過ごしていないと思います。

経験を通して身につけた

生きるために必要だった処世術。

それをただ静かに見守る

もう1人の「私」は、

ほとんど意識されることはありません。

まるで眠っているかのように。

そのもう1人の「私」は

体の反応ではないし思考の癖でもない。

観察している存在

体とは別の存在

霊や魂と呼ばれるものがあって

普通の状態では肉体と一体化していて

区別がつきません。

体の反応を静かにすると

観察していることを意識し始めます。

とても集中力を必要とします。

これができた時、私達ははじめて、

観察している主体である「私」と

観察されている客体の「私」を

感じることができるようになります。

グルジェフの言葉を借りると

本質の「私」と

機械的反応で動いている人格の「私」

エニアグラムでも

本質は魂の気質と言われ中心にあります。

それを囲むように性格が存在している。

性格は場面に応じて変化します。

職場での私、家での私、友達の私、

環境や接する人で変化していくもの。

それでは、今週の二時間瞑想の記録に移ります。

令和8年9月12日の二時間瞑想

眠気が強くて

起きたのは5時40分頃

そこから座る

眠気で頭がぼーっとしている

体があちこち痛い

姿勢を整える

静止した状態

体と空間がある

動かない

遠くで目覚ましの音

注意をそらす

しばらく聞こえている

いつのまにか気にならなくなる

思考はぼやけていてはっきりしない

最近気づくのは

思考の癖ではなくて反応の癖

特定の場面に遭遇すると

自動的に出てくる

幼少期からの反応パターン

特にネガティブな反応に気づくことが増えた

言葉にならない反射

自分を苦しめるパターン

言葉で認識されない

感情の反応

客観的事実ではなく

自分の反応が自分を苦しめてる

解釈は感情に対して

後付けで感じる

これは一瞬の出来事で

思考は遅すぎて追いつかない

つまり意識化するのが難しい

刹那的なもの

解釈は

言葉として認識しているのではなく

経験知からきてる

記憶の想起か

根底にあるのは恐れのパターン

身を守るための反応で

瞬時に変化する

思考より捉えにくい

認識する前に

状態の変化に乗っ取られて

何が起きたのか認識する前に

変化する

こうして意識化できたことは

継続の賜物かもしれない

今日は体が重たい

あちこち筋肉が痛む

外気温が下がったせいだろうか

少し姿勢を緩めながら座る

令和8年9月13日の二時間瞑想

朝5時頃、まだ暗い時間から座る

今日は水の音のBGMをかけながら瞑想

水が流れる音

水は上から下に向かう

天から地の方向

ずっと流れ続ける音を聴くと

今ここに戻る時に音が手がかりになる

自然音でうるさい感じがなく

聞こえていても気にならない

波の音の時もそうだったけれど

背景に同化していく感じ

つけていることで車の音とか

外の音が気にならない

音があると完全に静かな空間は

感じ取れない

個人的にはやっぱり音のない静寂が好き

聞こえていても邪魔にはならない

ただ、静けさに溶け込む感じは

味わえなかった

思考に気づいた時に

今ここに戻りやすくしてくれる

手がかりとして音があると

今に入りやすそうな気がした

音に慣れてくると

聴こえていてもそこに

意識を向けなくなっていった

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいましてありがとうございます。