グルジェフのワークについてのまとめ

こんにちは、hanaです。

最近、雨の日が多くて

暑さが緩やかになり助かっています。

今日は、自分の復習のために

グルジェフのワークについてまとめてみます。

グルジェフのワークについて

簡単に知りたい方は読んでみてください。

<第4の道>を歩ませるべく開発されたワーク。

ワークは、個々の人間の可能性を最大限に生かす道。

第4の道

グルジェフのワークの概要をつかむためには、

第4の道とは何かを知る必要がありそうです。

第4の道というからには、

他に3つの道があるということですね。

そこで、他の3つの道について

まず、確認していきたいと思います。

第1の道:ファキールの道

肉体、本能、性を確固不動の意志で制御することを学ぶ道

ファキールはねじる姿勢や訓練に耐えることで肉体、つまり一番下の階の制御術を開発する。(一番下の階とは、動作センター、本能センター、性センター)

たとえばあるファキールなどは片足で立ち続けたり、指とつま先でバランスをとるといった耐えがたい姿勢のまま何年間もすごすという。その行為によって彼らは意志を強靭にするのである。

ファキールの道にはほとんど知識はいらない。弟子はすでに熟達した者の近くに住み、模倣によって学ぶのである。ファキールは確固不動の意志を達成しても、それからまださらに二つの機能(感情センター、知性センター)を開発しなければならない。

時に、めったにないことだが、彼が熟達の師に見いだされそして導かれるということがあれば、その開発も可能といえよう。

引用:グルジェフ・ワーク p120-123 より

苦行をしている人たちのことですね。

お釈迦様も苦行をしていた時期があり、

この時期があったからこそ悟ることができたと、

相川圭子氏の書籍にありました。

肉体、本能、性の制御を習得していたから

瞑想により悟れたのかもしれません。

第2の道:修道僧の道

つまり宗教的な自己犠牲と信仰の道である。

感情センターがこの道での焦点となる。これは人間第二番を惹きつける。

ちっぽけな欲望が神への愛へと昇華するとき、感情は超克され自制がなされる。

だがこの状態が達成されても、修道僧は肉体と知性の両機能を同時に開発しなければただの<愚かな聖人>でしかない。

引用:グルジェフ・ワーク p123より

信仰心とは、崇高なもので

高次の存在を信じ祈ることで

小さな自分の枠を突破していくことができる。

決して知性がなかったり

肉体的修行がないとも限らないような

気がするのですが。

(※個人的な感想です。)

第3の道:ヨーギの道

ヨーギの道は知の道である。

これは人間第三番がもっとも自分に適していると思う道である。やはりヨーギも、全き理解を成しとげたにせよ他の機能(肉体、感情)が同じ水準でなければ、不能で干からびた状態のままであろう。

内的統一が達成されるには別の新しい努力と学習がなされなければならない。

引用:グルジェフ・ワーク p123より

ファキールの道、修道僧の道、ヨーギの道は、

それぞれに、肉体、感情、知性を

高める修行を説いている。

それに対して、第4の道では、

それらを同時進行で高めていくとされています。

第4の道:グルジェフ・ワーク

「世間にありながら世間に属さずに」いたいと願う人たちの道である。

伝統的宗教の道とは違って、第4の道はどんな恒久的な制度ももたない。

時と場所と人々に応じて、それは出現し消滅する。

この道に従って自己実現を追求しようとする者は世を捨てることを拒絶する。

ワークはいわゆる<食物工場>の三階部分全部(肉体、感情、知性)に対してなされる。だから、もし目的が達成されるなら、あるいは実際に達成されたとき、三機能全部においても同時に達成されるということになる。

この道はどんなタイプの人間にも開かれている。なぜなら環境を変化させることを必要とせず、その人の生活状況をそのまま利用するからである。

グルジェフ・ワークはこの第4の道のスクールの伝統を受け継いでいる。

引用:グルジェフ・ワーク p124より

グルジェフ・ワーク

グルジェフによる自己開発法の大まかな方向性は以下の通りです。

グルジェフによる自己開発法は、われわれの生に負わされた宇宙における位置と役割を司る諸法則の重荷から、個々の求道者たちを解放するための一つの試みである。

それは、次のように組織立てられている。まずクンダバッファー※1器官の効力を無効にし、エネルギーの漏出を抑え、身体の機械装置を種々の食物の変容に適したものとすること、さらに<本質>に対し、<人格>の干渉を弱め、知識と存在を高め、高次の諸体を開発させること、第一、第二の意識的ショックを与えること。

いわゆる普通の三類型のいずれかから高次の存在へと発達するためには、<本質>を結晶化し、調和させ、恒久的で統一された<私>に仕上げなければならない。

主としてこれは、<本質>と<人格>の間の葛藤を高めることによってなされる。このワークのためには<本質>と<人格>の両方が必要である。

<本質>は<人格>をもたないわけにはいかない。さもなければ、それは生長することを願いはしないだろう。

<人格>は、学習の材料、乗り越えられるべき障害物、克服されるべき誘惑、絶滅すべき妄想を提出する。そして<本質>は<人格>との葛藤と自らの検証を経ることによって、強さと成熟に達する。

引用:グルジェフ・ワーク p149-150 より

※1クンダバッファー:グルジェフの教えにおいて、人間が自分自身の内面にある矛盾や真実を直視した際の衝撃から自分を守るために無意識に作り出す心理的な装置とされている。

ここからは、私の解釈です。

用語が難しくて理解しにくいですが、

肉体の状態を整えながら、

自己観察を通して感情的な反応なども

偽ることなく真実を正直に見つめ、

恥や罪悪感、劣等感なども含めて、

痛みを真正面から受け止めながら

本質と人格の違いを葛藤を通じて見極め

本質をより強く育てていく。

私たちを支配している

後天的に獲得された人格がもつ反応から

先天的にもっている本質に結晶化させる過程。

これは、現実でぶつかる

人間関係の悩みや葛藤を通して

客観的事実と妄想的なものを分離して

ありのままを見つめる過程を示していますね。

人格がなければ本質も分からない・・。

人格は後天的なものとされています。

発達過程を通じて学習される動作の癖や

周囲の人間関係や環境から惹起される

感情的なパターンなども含まれると考えると、

本質を知ることは難易度が高そうです。

<本質>と<人格>の対照

重要な部分なので、

本質と人格について確認しておきます。

<本質>

先天的、個人に固有のもの、

人間における真実、

各自の個体性へとやがて発達する、

必然によって支配される

<人格>

後天的、

「自分自身のものではない」ところのもの、

人間における虚偽、

自己のワークに不可欠な情報提供、

偶然によって支配される

(引用:グルジェフ・ワーク p108 より)

ワークの3つの系列

グルジェフの教えには、

三通りの<ワークの系列>があるとされています。

それらは、それぞれが

本能(運動)・感情・知性の

三つの基本的機能とそれぞれ対応していて、

最初は第一の系列のワークに比重を置き、

その後に第二の系列により注意を払い、

第三系列のワークには最高度集中、

最大限のエネルギーを向けるそうです。

(参考:グルジェフ・ワーク p158より)

一つ一つ、見ていきますね。

第一の系列のワーク

自分自身のための自分自身に関するワーク

今ここにある<私>を自分は本当に知っているのか。他人に対して時おり適用できるような客観性をもって<私>をみているのだろうか。

X氏、Y氏といった特定な名前を冠して立ち動いているこの人物は誰なのか。ともあれ、<私>自身を知ることができる人間は、私自身以外にない。

中略

他人に対するように自分に焦点をあてる他にも自分の過去を再検討してみること、つまり公平な立場で過去を見ることも効果的な方法である。自分自身の過去を物語ることの治療的な効果は精神療法でも高く評価されている。

中略

自己観察を積み重ねるには何年もかかるかもしれないが、日常生活の中で正しく行なうことができるので、矛盾しているようではあるが、全く時間をとらないものともいえるのである。

自己認識の過程が身体的な習慣の観察から情緒的反応や思考パターンの観察へと進むに従い、自己想起の瞬間、つまり意識のより高次の段階の閃きが生じ、それは時を経るにつれて、ますますはっきりとしたものになっていくだろう。

中略

自己想起は、自分を単に観察するといったものではない。もっともそれですら困難ではあるが。それははっきりとした、注意力のもつある種の性質をそなえているが、言葉で表現するのは難しい。ちょうと、塩の味を味わったことのない人に塩の味を説明することは無理だが、一度味を知ってしまえばすぐに了解できるように。

中略

つまりその方法だけを見れば、彼らは、朝の沈黙の行にあるヴィパシャナの瞑想者たちとほとんど区別できないにちがいない。意図も方法も仏教徒の基本的な行法である止観に似通っている(たぶんにこれを源として導きだされたものである)。

最初のうち、心は雑音と動揺に満ちているのが普通であり、内面を沈黙に導こうとする試みや感覚に注意力を集中しようとする試みにことごとく逆らおうとする。心の中のものとの自己同化が減少するにつれて、明晰な意識の瞬間が訪れる可能性がでてくる。

瞑想は深まるほどに、生活の中に起こる自己想起の瞬間の確認という点で役立つものとなりうる。またそれに伴い自己想起のほうもより強度を増し、より信頼の置けるものとなるのである。

自己想起の成果が蓄積されるにつれ、自分の様々な現れ方の認識も増大していく。こうして<本質>と<人格>間の葛藤を特徴づける一種の熱と光を生じる状態が生まれてくる。

中略

目的を想起する場合、そのもっとも大きな障害となって立ちはだかるものは、複数の<私>から成る一人の人間が意志的になろうとする場合の特徴である複数性、一貫性の欠如、分裂化である。

ただ複数の<私>があるとはいっても、各々の人間は一つの中心的属性となるもの、つまり<人格>の構造の基盤となるまたはその展開軸となる一本の柱を持っているのである。

この<主要な特徴>は、まずほとんどといってよいほど当の本人には見えてこない。他人のほうが、それについてかなり正確に指摘することができる。

引用:グルジェフ・ワーク p159-

第一の系列のワークは、

自分を知ることで、方法論としては、

ヴィパッサナー瞑想の手法が取り入れられています。

自己観察を通じて行われ、

人生史を振り返って

幼少期からのパターンも含めてみていく。

後天的に身に着けてきた思考や感情、

行動のパターンを把握することから

中心的属性と呼ばれる一つの柱を探る。

本能、感情、知性という分類や、

機械人間についての属性は、

エニアグラムにも反映されていて

タイプ分類の過程で幼少期のパターンを

読み解いていく質問項目があることから

本質を探る手掛かりとなるということでしょうか。

最後の中心的属性となる基盤の部分は、

エニアグラムの9つの性格タイプに

照らし合わせて考えると

理解しやすい気がしました。

第二の系列のワーク

他人との、他人のためのワーク

第二系列のワークは、特殊な状況を設定し、他の人間と関係を持つ方法を自覚するための努力をささえ、そして他の人々とともに生きる新しい方法を訓練する機会を提供する。

肉体の習慣的な反応が綿密な学習の対象となりうるのと同様、情緒的反応のパターンもやはり観察と分析の対象となりうる。

精神分析はそもそもの始まりからそれを研究対象としていた。

だた、グルジェフ・ワークは、精神療法やその分派、あるいは人間の潜在能力を推進させようとする他の思潮とは根本的に違っている。

つまり、否定的感情はすべて不必要なものであって、それが外に表れることを抑圧しても(内面ではそれを観察するわけだが)、望ましからぬ代償的な調節作用を他の習慣的なパターンに引き起こす危険はないと主張しているからである。

否定的感情の抑圧は第二の意識的ショックを作用させるための条件なのである。

このように、自己想起の訓練をすでに重ねている人たちに対して、否定的感情を表わさない訓練が課せられるのである。

否定的感情が外部へ表れるのを抑圧することは、おそろしく困難な仕事である。

それは、しばしば<本質>と<人格>間の葛藤を耐え難いほどの苦痛にまで激化させるものなのだ。

「他者の存在に耐えることは途方もないことだ」グルジェフは、強調した。

<本質>が成熟するに伴い、両親や教師から習得された規範的な支配パターンは次第に弱められていく。

フロイトの用語でいえば、超自我の支配力が消滅する。本物の感情(フィーリング)が現れるようになり、他人や自分自身への感情(エモーション)の性質が変化していく。

意識的な願望が可能となる。そうなれば祈るということが可能になるかもしれない。ニコルによれば、「<私>という感情(フィーリング)の変化」と「低次の感情(エモーション)の統御力」が、感情の生活が高次の段階に高まっている徴であるという。

引用:グルジェフ・ワーク p176より

肉体的な反応や感情的な反応を観察し、

他者との関係性を通じて

否定的感情を表出しない努力をしていく。

これが、第二のショックを引き起こす。

善行をする意識的な努力が結晶化すると

低次の感情に対する統御力を備えるようになり

高次の本質的な感情につながることができる。

これが、第二のショックを通じた

変化の仕組みなのでしょうか。

それにしても、負の感情を封じるって

めちゃくちゃ苦しいよね。

こんなことしたら、狂いそう・・。

やったことないから想像しかできません。

第三の系列のワーク

ワークの理念に仕えるための

ワーク自体のためのワーク

ワークの第一系列は、知覚力を獲得し存在の水準を高めるために人が自分の個的な過程にもっぱら集中するということから、自己中心的なワークを考えてもよいかもしれない。

第二系列のワークは他の人々との関わり、相互作用を取り入れるが、しかし注意はまだ他人や社会環境に対する個人的な反応パターンに集中しているだけである。

第一、第二の両系列のワークは、ともにまだ師の指導のもとにある。これに対して、ワークそれ自体の理念のためになされる第三の系列のワークになると、自主性が許され、それどころか推奨されるようになる。

もはや個人的な生長や何かの獲得が目標の中心ではない。

第三の系列のワークでは、自分自身へのワークのために集まってくる人々のグループ活動、組織形成の要望やそれに要する事柄が考慮の対象となる。

無私の奉仕が、第三の系列のワークの核心である。

そして、無私の行為とは通常の意識水準にある人間の限界を超えたものであり、それゆえこの系列のワークは、<人格>が少なくともある程度力を失い、意識水準が改善されぬうちは、どう努力を続けてみたところで不可能なのである。

引用:グルジェフ・ワーク p183-184より

簡単にまとめると、

内的な探求・・自分を知るための修行

外的な探求・・他者との関係を通した修行

その後に行われる無私の奉仕活動

この3つの過程がワークを構成している。

自己観察を続けながら己を知り、

暴れる感情や本能的反応を統御し、

知的、感情的に高次の意識へつなげていく。

そのような感じになっているのですね。

ムーヴメンツ

ワークの中にはグルジェフが開発した舞踏が含まれています。

グルジェフがワークの一環として利用するために、アジア的な源泉から取り入れたリズム体操的なムーヴメンツと舞踏は、ある種の知識の伝達、および調和的な存在状態を達成するための手段という二重の目的をもっている。

それはまた、芸術的な形式と語法を具えた身振りによる瞑想である。

姿勢や動作と感情は結びついているため、

日常と逸脱したパターンの動きを学習することで

これまでにない感覚や感情を通した

要素を習得できるのかな・・と想像してます。

肉体的な鍛錬の要素や味わったことのない

感覚的な学びの世界がありそうですが

通常と逸脱した動きって、

ほんの少しだけ試してみただけでも

狂気じみた感覚になりコワかったです。

とても長く続けられそうにありませんでした。

そこを突破することで見える世界が

きっとあるのでしょう・・。

自己を制御する能力を高めていくことが

意識レベルを上げていくためには

必要な要素ということですね。

それでは、今日はこの辺で失礼します。

お読みくださいましてありがとうございます。