こんにちは、hanaです。
今日は、少し冷たいと感じる人が
いるかもしれないし、
誤解を招きやすいような
話になるかもしれません。
精神的自立ということを考えた時に、
大切なことの一つである、
自他の領域を分けるということについて
書いてみたいなと思います。
自分と他人の領域を分けることの重要性
hanaは医療技術職として従事していて、
日々、患者様と接しています。
仕事では、患者様から
「ありがとうございます。」と
言って頂く機会は多くあります。
有り難い仕事だなと感じています。
そんな時に思う事は、
患者様は、患者様自身の力でやってのけた
私はそれを傍で見ていた
それだけなのだと、
仕事をしていて、いつも思います。
私ができることはここまで
というその領域があって、
そこから先の運命をどうするかは、
患者様の領域がある。
そういう認識をもっています。
患者様の世界を変えるのは
患者様自身であり、
自分が責任を持てるのは
自分自身の世界においてのみなのです。
人間関係において、
自分の領域と相手の領域を
分けて考えることは、大切な事です。
それができないと、自分がダメだからと
不必要に落ち込む原因になったり、
自分を責める原因になったりもします。
誰しも、困ることや助けが必要になる時はあって、
様々なサービスを利用したりします。
それは、病気になったり、怪我をしたり。
人生には大変な境遇や状況というのは、
いろいろとあります。
けれども、患者様は
大変な状況にあるかもしれないけれど、
救いを求める哀れな存在とは思いません。
そんな風に想われても、
自分が逆の立場だったら嬉しくないと思うのです。
患者様には、その大変な境遇を
乗り越える力があるし、
乗り越えられない試練は来ない。
だから、この方は大丈夫なのだと
思いながら接しています。
誰でもできることに限界はあるので、
助けなければと考えていたら、
できなかったら落ち込むし、
無力感に苛まれて、仕事にならないです。
病気も怪我も、最終的に治すのは、
その人自身にある自然治癒力です。
極端な話、治療者が治すのではないし、
それは部分的には正しいけれど、
間違いでもあります。
手術を要したり、
蘇生するための処置をしたりと、
絶対に助けを借りなければ
どうにもならない時もあるでしょう。
だけれども、敢えて言うとすれば、
治すためのお手伝いをしているだけ。
できるのはそこまでで、
それ以降、どうするのかは、
患者様の内側にある力にかかっている。
それが、真実ではないでしょうか。
治すために、食事療法や運動療法など、
すごく努力される方もいれば、
途中で投げやりになる方もいる。
それを傍で見守る。
声をかけたり、必要な事をお伝えする。
できるのは、そこまでです。
その人に代わって、生きることはできない。
厳しい言い方になってしまうけれど、
結局、障害と向き合うことにしても、
技術や知識を身に付けるにしても、
何かをする時に、
受け身で
「治してもらう。」
「教えてもらう。」
という気持ちでいる人と、
「自分が治す」
「自分が身に付けていく」という
主体的な気持ちを持っている人とでは、
辿っていく運命が異なっていくように感じます。
受け身の人は、
できなかった時は、
教え方が悪い、と人のせいにします。
そして、主体的でいると、
できなかった時は、
自分の努力が足りなかった、と考えます。
そして、
積極的に分からないことを質問をしたり、
自分なりに考えたりします。
話を戻します。
相手を弱い存在と認識し、
助けなければ
という考え方に陥ることは、
誰しもあったりします。
それは純粋に
相手を想う気持ちからくるものです。
けれど、その考え方は
相手の力を信じていないと言う意味で、
相手に対して失礼になります。
自分にできる範囲のことをするけれど、
その先は、
「あなたの内側に力がある」ということを
思い出してもらうということが
大切だと思いますし、
そう想ってもらうことが、
相手の方にとっても、
一番の助けになると感じます。
相手の中に可能性があって、
力や才能やあらゆる魅力があって、
それを発揮していく尊い存在である
という見方をしていくこと。
そして、その先の未来は、
その人自身にしか創れないものであり、
その人がどんな道を選んだのだとしても、
それは、その人の責任において行われたこと。
どんな事柄においても、
相手に対してどれだけの
影響力を及ぼせるかと考えると、
結局、微々たるものでしかない。
それは、
「自分自身が世界を創っている」
からであり、
他の誰よりも、
「自分自身の考えが、一番自分に影響を与えている」
という事実があるからです。
誰かに何かを言われたとして、
吟味して、考えるのは自分であり、
何を受け入れ、何を拒絶するか、
その判断は自分自身で行われます。
特殊な状況があるとすれば、
洗脳するための方法を
知る存在によって意図された場合
だったりするかもしれません。
テレビ信仰や、
どこかの宗教の教祖様がさせるように、
誰かを信じきらせて
その人の言った通りに考え、
その人の考えが全て正しいと思うように仕向け、
頼り切らせているというのなら、
それこそ、洗脳されてる以外の何ものでもない
ということになります。
理解の限界と自他の境界線
すべての人には、それぞれに
考えがあって価値観があって、
お互いに理解が困難なことがあります。
例えば、
悟りを開いた聖者の気持ちを
理解できるかっていったら、
悟ったことのない私には、
分からないと思います。
「理解できない」があって、
誤解が生じることは仕方ないと思います。
hana自身が人間関係に悩み、
いろいろと失敗して、
もがいてきたからこそ、
言えることがあるとすれば、
自分の領域と相手の領域を分けることが
精神的自立をもたらすために
大切なことだったな、ということです。
そうでなければ、
「嫌」ということができず、
相手にキャパシティーを超えるほど
与えすぎてしまったり、
どこまで頼って良いのか理解できずに
誤解して、寄りかかり過ぎてしまったり。
これは、境界線が分からないから
起こってしまうことです。
慈しみの気持ちは大切で、
相手に与えていくというのは、
尊い行為です。
けれども、我慢したり自己犠牲のもとで
行うのであれば、それは違う。
見返りを求めて行うというのも、違う。
だから、自分の責任において、
与える時には、
できる所までという線引きを
しなければいけないし、
受け取る時には、
これ以上は受け取れないという
線引きも必要なのだと思います。
冷たいと感じる人もいるかもしれないけれど、
本当に相手との関係性を
大切にしたいと思うからこそ、
人間関係において、
自分自身をしっかりと守り、
満たされた状態であることが必要で、
その状態で相手と接することが、
良い関係性を作っていくのだと思います。
キャパシティーを超えて与えた時、
見返りを求めていると、
返って来なかった時に、
相手を憎む、嫌う、という事が起こります。
そうならないためには、
「自分」という領域をしっかりと
守ることも大切なのだと思います。
これは思春期の頃、
友達との関係性の中で
自他の領域を分けることがうまくできずに
痛い思いをしてきた経験から理解したことであり、
仕事を通して身に付けたことでもあり、
悩んでいた当時の自分に伝えたい内容です。
スピリチュアルの世界では、
人と接する時に、
「自分の波動を落とさないことが大切」という
ことを聞くことがありますが、
それは、相手との関係性に置いて、
自分と相手との境界線をしっかりと認識して、
お互いに自立した存在としての
線引きをきちんとできる
ということかなと思っています。
相手を想わないわけではないし、
辛い境遇を想えば、涙も出ます。
共感と言うのは大事な事で、
相手を理解するように努めることが
相手の救いにもなるでしょう。
けれど、依存させない。
相手を弱い存在として見ないし、
そのように扱わない。
相手にも、同じように命があり、
想いがあり、価値がある。
責任能力がある。
もしも、相手の方が、
障害を抱えていたりして、
責任能力が持てない存在に見えたり、
助けを必要としているのなら、
それは、そういう厳しい境遇に耐えられるだけの
強い魂をもった存在として考え、
必要なお手伝いをさせて頂く。
有り難い機会を頂いたと想って接する。
決して、偉くなんてない。
周りの人から褒められたり
感謝されるようなことができるというのは、
本当に有り難いことです。
感謝の気持ちを忘れずにいたいなと想います。
最後に
伝え方がまだまだ未熟で、
冷たい印象になってしまったら、
ごめんなさい。
自分と他人の領域を分ける
ということを書いてきましたが、
同じ人間は一人もいないように、
違いを尊重し合う上での
在り方だと思っています。
波長が合う人とは、
離れていても通じ合えるし、
物理的な距離が近いことや
連絡の頻度が多いことが繋がりでもない。
数年ぶりに会っても、
再会を喜び合えるような、
古い友人のように。
見えない世界では、
距離とか関係なく意識が繋がっています。
相手を大切に想う気持ちを持ち続けていきます。
怒りや不安よりも
優しさや喜びの気持ちをもっていられるように。
自分の心を整えていく。
そんな在り方を大切にすることが、
相手の方を大切にすることでもあると想っています。
お読みくださいまして、ありがとうございます。