善と悪、そして解脱についての直感的考察

こんにちは、hanaです。

久々に1人で過ごす時間がとれたので、

のんびりしていたら、

直感的に善と悪についての

閃きが降りてきたので、

今日は、善と悪についての話を

させて頂きます。

これからするお話しは、

私の個人的な見解ですので、

正しいか、正しくないかは、

証明されているものではありません。

これをお読みになって、

何を考え、どう感じるか、

ご自身の感覚を大切にしながら、

お読みになってください。

善と悪について

私達がいる物質世界のものは、全て、

二元性で成り立つと言われています。

けれども、善と悪という、

この二つの要素は、

他の要素とは違っています。

なぜなら、それは、

進むべき方向を明確に示す

指標となっているからです。

そこには、自由意志と選択が介入します。

他の性質は、片方が現れれば、

もう片方も現れる。

不可分のものです。

上と下、左と右、プラスとマイナス、

在ると無し、光と闇、といったように。

けれども、善と悪は、

思考の中で対照になる概念であり、

固有の性質ではありません。

例えば、ビルには上と下が存在し、

右が決まれば、左も出現します。

内側と外側もあります。

けれども、ビル自体に善も悪もありません。

善は、悪という要素がなければ

存在できない不可分のものではなく、

ある行為や言動が与える影響に対して、

比較対照として理解するための概念です。

そのため、グレーゾーンのような曖昧さがあり、

一方では、絶対的な悪というものもあります。

けれども、絶対的な善というのは、不確かです。

例えば、自然界にある

弱肉強食は、自然を成り立たせ、

食物連鎖の中で自然なバランスを

もたらすものですが、善か悪かというと、

どちらとも言いにくい。

例えば、核爆弾で地球を破壊する行為。

これは、絶対的な悪だと感じます。

一方で、海に流れるプラスチックごみを

取り除く活動。

これは、善の活動だと感じます。

私の考察が不十分かもしれないので、

必ずしも言い切れるものではないかもしれません。

けれども、今は、そのように考えています。

そして、地球を破壊するという悪行は、

例えば、プラスチックごみを取り除くというような

善行がなくても成り立ちます。

プラスチックごみを取り除くという善行は、

プラスチックごみが撒かれたという悪行が

あった上での悪を取り除く行為です。

けれども、悪行なしに成り立つ

絶対的な善行って、なに?

と聞かれると、

それは、悪行から守る行為は思いつくけれども、

悪行なしに、善行だけをというのは、

なかなか思いつかない・・・。

悪がなければ、ただ、平和なんです。

そのため、善そのものは、

悪に対する対比の概念として現れるもので、

悪を取り除いていくことで、

自然とそうなるものなのかもしれません。

つまり、ベースは善でできていて、

悪を取り除くと、自然に還っていくような。

もともと白い布(仮に善とします)に

黒いシミ(仮に悪とします)ができて、

取り除けば(善行)自然に白い布に還る。

というような。

例えば、木を植える行為は、悪行なしに成り立ちます。

けれども、それが絶対的な善行かと聞かれると

そのようにも思えますが、

善行だからと、たくさん植えれば良いのか

と言うとバランスがあります。

森林破壊がなければ、植える必要は

ないのかもしれません。

そして、善か悪かは、

選択の自由があります。

それは、思考や使う言葉や行動を

どのようなものにしていくかという

個人の選択です。

善の方向に進む時

物事は発展し成長します。

悪の方向に進む時

物事は破壊と衰退の方向に進みます。

宇宙は相反する二つの要素の

組み合わせで出来ています。

破壊もあれば、創造もあります。

死や破壊は、新たなる誕生につながり、

終わりは始まりにつながる。

切り離せないものです。

ループしています。

それは、生と死について語る時、

仏教で輪廻転生とも呼ばれています。

このループから抜け出し

死や破壊のない世界に繋がるには、

自分自身が純粋な存在になっていくことが

必要になるようです。

自由意志のもとで

悪を選択せず、

内面の汚れを払い、

純粋な存在に戻っていくこと。

実は、瞑想はこのような

過程を辿る方法でもあると言われています。

私自身は、まだ未熟なので、

お伝えできることは限られています。

ですが、できる限り手伝わせて頂きます。

結局、様々な古来の宗教で言われていることは、

善行を積んでいく教えであり、

その結果として、天国だったり、

涅槃に達していくとということなのかもしれません。

もちろん、そこには

深い意味があり、真理が存在します。

輪廻転生というループから抜け出し

幸福の境地に達していくこと、

それが、仏教で言われている

解脱なのだと思います。

このことは、様々な書籍に記されています。

そして、仏教でもヨガでも

瞑想をする過程において、

行為を清めることの大切さや

行為を戒める事項が定められています。

私達は輪廻転生という

ループから抜け出すために、

善の道を進んでいく必要があるようです。

私達の中には、善と悪

両方の感情や想念が生まれ

明滅を繰り返しています。

どちらの方向へ進むかは自分で選ぶことができ、

善と悪を見極める力は、内側に備わっています。

悪は、見方を変えれば、

学びをもたらすもので、

ただ、否定するのではなく、

内面で向き合うものです。

行為として出てくる悪行は、

悪い思考や言葉の影響を受けています。

内側から、見えない部分から向き合って、

根本を変えていく必要があります。

目に見える部分だけを変えても、

それは、本質的な変化にはなりません。

私達の魂は、

元々がエネルギーであり、光であり、

神と呼ばれる源からの分け御魂とも

言われています。

源の性質を知っていて、

感じ取る力が備わっています。

心の囚われを取り除き、

純粋な魂の望みを知る時、

それは自然に善の性質を示します。

純粋に戻ること。

他者の比較に溺れず、惑わされず、

自分に戻り、自分の軸を生きること。

それだけが、自由意志のもとに、

平和な世界を作っていくことなのでしょう。

移ろいゆく心ではなく、魂に従い、

その想いに忠実であることが大切で、

何かを見聞きする時にも、

ただ飲み込むのではなく、

心の奥底にある感覚を大切にしていく。

多くの人がこのことを理解し、共有し、

子供たちに教えていくと、

より善い世界につながっていく。

善悪があるから、学びがある。

二元性の世界において、

この善と悪という性質は、

対極にありつつも選択の自由があり、

思考や言葉や行為を変化させることで、

現実を変化させられる。

これを具体的に体験を通して学び、

自神が、なんであるかを知っていく。

これが生まれたことの意味ではないでしょうか。

この道を学び、極めていくことで、

純粋な源に還ることができる。

それは、この地球に生まれてくる

魂にとっての真の望みであり、

それは、もともと私たちの源であった

創造主の望みでもあるように感じます。

(注:あくまでも一個人の見解ですので、

信じなくていいです。

ただ、読み物として楽しんで頂けたら嬉しいです。

私自身も、学びの過程にあります。

そういうものとして、お読み頂けますと幸いです。)

美について

少し、話は変わりますが、

善と悪ということに付随して、

美について、考えてみたいと思います。

宇宙は美しいです。

そこには、調和した法則が流れています。

自然界には、

ミクロからマクロまで、

フラクタル構造が存在します。

美は神のもつ性質で、

それは、悪に染まった存在すらも

憧れる性質であり、

善と悪のもとに、

悪を選ぶという意味での醜いものは

破壊の道を進み、

存在し続けることができません。

美とは望まれるものであり、

調和であり、

進むべき方向でもあります。

そして、善を選択する道は、

ある意味では、

美を求める道でもあります。

それは、単なる見た目の美しさ

ということではなく、

内側の輝きであり、光の性質です。

これは、視覚に囚われやすい

物質次元では誤解されやすいことです。

顔や体の美醜は、

個人の好みにより異なるものです。

そして、時代によっても見た目についての

美の基準は変化します。

明治以前は、お歯黒が美しいとされていたようです。

首長族は、首が長い方が美しいとされます。

それぞれに、文化が違えば感性も異なります。

私がお伝えしたい美は、

見る人や時代によって

変化する事柄についてではなく、

普遍的で変わらない美のことでした。

ついつい、長くなりました!!

ここまでお付き合いくださいまして、

本当にありがとうございます。

感謝です。

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