見栄を張ってしまう心理。理由はどんなことだろうかと考えてみた。

外側に見えるものを重視する人

あなたの周りには、見栄っぱりの人はいますか?

私は、そういう人がいたことがありました。

洋服や持ち物を真似するのに、

「あ、お揃いだねー。」と言っても、

「そうなの。真似しちゃった」とも言わずに、

「あれ、そうだった?」とか

しらばっくれている人がいました。

お揃いならお揃いで、「一緒だねー!」とか、

盛り上がれるかな、と思ったら、

「あれ、なんでそこ、真似したことを認めない?」

みたいな振る舞いをしている人がいて、

もやもやと嫌な気持ちになったことがありました。

世の中には、目に見えるものを重視する人がいます。

それは、どんな価値観かと言うと、

見栄を張る人は、価値観の物差しを

目に見えるものを軸にして考えているために、

他者からどう見えるか、

という事を基準にしていることが多いです。

例えば、以下のような感じです。

・外見重視

・学歴や実績で人を判断

・結果主義

・科学的根拠のないものは信じない

多かれ少なかれ、全ての人が、

これらに影響を受けるとは思いますが、

1人の人が、

上記の価値観を全てを持ち合わせている、

というよりは、

重視する考え方の中に、

こういった価値観を

多めに持っている傾向があるということです。

見栄を張る、ということは、

外見的な価値で物事を判断しているために、

自分を着飾ることに(経歴など含め)

エネルギーを注いでいる状態で、

自分の自信の根拠がそこにある。

あるいは、劣等感に縛られている、

ということでもあります。

上を見ればきりがないし、

下を見てもきりがないです。

たとえ、世界チャンピオンになったとしても、

時が経てば、記録は塗り替えられるし、

いつかは、忘れられます。

比較や競争の世界に没入すると

では、上記のような価値観は、

人の在り方にどのような影響を

及ぼすのでしょうか。

例えば、外見重視の場合。

人を見た目で判断する人は、

可愛い人やかっこいい人に憧れます。

それだけなら問題ないのですが、

外見的に劣ると考える人をないがしろにしたり、

馬鹿にする傾向を持つ人もいます。

服のセンスをバカにしたり、

スタイルの悪さを笑ったり。

こういうことで、不快になった経験はないでしょうか。

私は、着ている服を馬鹿にされて、

傷ついた経験が、子供の頃にありました。

親が経済的に厳しい時期に、

新しい服をなかなか買ってもらえず、

誰かからもらってきたお古ばかり

着せられていた時期があったなぁ、、と。

また、教育実習に来た若い先生は、

可愛ければアイドルのような扱いでしたが、

カッコ悪ければ、興味を持たれず、

まともに授業を聞かない生徒たちもいて、

あからさまな態度の違いに、驚いた記憶があります。

クラスでも、外見的に華やかで目立つ子達が、

そういう傾向にあったような気がします。

また、実績や学歴を重視する人もいます。

はっきりと上下が分かるものを指標にして、

その人が、どの程度の人物なのかを

判断しようとする側面があります。

どちらかと言うと、男性に多い印象です。

そういう人は、自身も努力する傾向があり、

そういう意味では良いのですが、

自分が認める人の考えは重視するけれど、

下だと判断した人の言う事は

否定的に見る傾向があります。

「この人は凄いよ」の基準が経歴だったり、

「この人の言う事は聞く価値ないな。」

と過去の出来事から判断します。

結果主義は、どれだけの人に認められているか

という、他者評価がベースにあります。

それはそれで、大切な時もあるのですが、

その結果に至るまでの過程や

失敗の経験から身に付けたこと、

背景にあった努力の過程なども、

結果が出なければ価値が低いと見なしたりします。

結果が出たことは認めるけれど、

結果が出ていなければ、

ただの失敗という捉え方は、

人間として大切な学びを

見逃すことに繋がらないだろうかと思います。

科学的根拠のないものは信じない。

これは、現実世界に適応して生きるには

ある意味、認められやすく、都合が良いと言えます。

けれど、心の奥の感覚に耳を傾けることの

大切さを見失わずにいてくれたら良いな、、

とは思います。

これらに共通することは、

目に見えることは比較することが可能で、

人に優劣をつける考え方につながるという事です。

優劣をつける考え方は、

競争心を生み出します。

競争心は、人と人を遠ざけます。

自分を高める、努力の糧にする一方で、

余計な優越感を持っているために、

「分からない」と認めることや

助けを求める事が苦手になったり、

協力することを阻んだりする可能性も

あるのではないでしょうか。

優劣をつけて、

優でないものは、価値が低いと考える。

そのため、自分の中の基準で優になるように

努力するという気持ちが生まれる一方で、

劣に対しては、軽視すると言う傾向を持ってしまいます。

けれども、いつの間にか持っている、

劣の価値が低いという考え方は、

正しいのでしょうか。

目に見える世界に囚われると、

本質的な価値を見逃すことになるような気がするのです。

本来の価値を知ることとは

人には、生まれ持った価値があります。

着ている服とか、容姿の良し悪しで

決まらない価値です。

普遍的な価値は、私たちは命であるということです。

それは、死んだら消滅するのでしょうか。

命は死後も別の形で続いていくものだとしたら、、?

死後にも存在し続けるかどうかを

信じるかどうかは、個人の自由なので、

どちらでも良いと思っています。

私は、個人的には、

魂は死後も存在し続けると思っています。

その考え方の方が、

より深く生きられるような気がするので、

自分にとってはプラスだなと思っています。

外側の世界に囚われると、

本質的なことを見逃す事があります。

この基本的な事に立ち返ると、

傷ついた経験からの学びや、

失敗から得られる知恵の中に、

本当の価値があることが分かります。

本当の宝物は、優劣で言うならば、

劣の中から学べる事の方が多いのではないかな、

と感じます。

聖書の言葉に、

「貧しい人々は幸いである。」

という言葉があることを思い出しました。

この言葉の真意は、

食料が満ち溢れ、満腹でいる人達が幸せであるという

一般的な価値観に疑問を投げかけています。

いつも満たされていると、

食べられることの本当の有り難さは、

感じにくかったりします。

貧しい人々は、食べられることの本当の有り難さと、

その価値を身をもって知っている。

少ないものを分け合い、助け合うことも含めて。

外見的には、苦しんで見える人々の方が、

本当の価値や、大切な事を知っている。

そんな意味が含まれているのではないかな、と思います。

個人的な経験からも、

子供の頃に、着ている服を馬鹿にされて

恥ずかしさや悲しさを感じたけれど、

その経験があるからこそ、

人を外見で馬鹿にすることは

良くない事だということを、

身をもって学ぶことができたので、

誰かの外見を馬鹿にするということの

くだらなさを痛感しました。

だからこそ、私はそんなことは、

絶対にしないと心に誓う事ができました。

「人は死んだら終わり」という考え方からは、

「劣の経験」を持つ意味は分かりにくいかもしれません。

儲ければ良い、人から奪っても良い、

という考えの中に、本当の幸福は感じられないと思います。

けれど、本当の自分は、

「死んでからも存在し続ける」と考えると、

価値観はひっくり返ります。

持ち帰れるのは、経験からの学びや

積んできた徳だったり、

深い洞察力や本質的な理解などではないかと思うのです。

それこそが、この世で生きる意味だったり、

肉体を持って、様々な感情を味わう価値だったり

するのではないかなと考えています。

目に見えるものに惑わされない

私たちは、この地球上で生きている限り、

肉体を持っているし、

そのために、五感の情報に縛られやすい側面があります。

見栄を張ってしまう傾向は、

修行を重ねた聖者でもない限り、

多かれ少なかれ、

誰しも持ってしまう自然なことだとも思います。

私自身、褒められたら素直に嬉しいし、

けなされたら悲しいです。

他者の評価を重視しないと言っても、

感情はあります。

ですので、そんな傾向があったとしても、

落ち込んだり、否定したりせずに、

ただ、目に見えないものの価値にも、

時々目を向ける、ということを

思い出していくことが大切なのではないかと思いました。

何事も、バランスをとるということは

必要なことなので、

もしも自分が、劣等感に囚われたり、

優越感に浸ったりしているなと感じたら、

心の内側にある声に、

そっと耳を傾けていくようにしたいな、、

と思っています。

もしも、あなたの周囲の見栄っ張りさんが

あなたをもやもやさせることがあったら、

本当に大切なことは、そこじゃない。

という、心の内側の声に耳を傾けてみてくださいね。

今日も、お読みくださいましてありがとうございました。

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