人を分断するものに惑わされないために

憎しみが作り出される過程

これまでに起こされた戦争や差別と言った分断は、

単純な決めつけや、自分は〇〇であると言う

アイデンティティ自体を刺激され、

憎しみや敵対心が形成されてきたように感じます。

それは、私は日本人であるとか、

男であるとか、〇〇教徒であるとか、

「これが自分である」または、

「〇〇は、■■である。」と言うレッテル貼りにより、

自我を形成するアイデンティティを刺激して

行われていた側面があるように感じます。

例えば、男対女。

男の方が優秀であり力もあり、

役に立つという思い込みを多くの人が持つと、

男が生まれると尊び、女が生まれると落胆したり、

女性が社会的重要ポストに就きにくかったりと言った、

男女差別の概念が当たり前の時期がありました。

女性は長い間、迫害されてきましたが、

女性の権利獲得が叫ばれるようになり、

現代では、男女平等の概念が普及しています。

ほんの数十年前の出来事です。

平和的に正当な手段で声をあげるという事も、

大切な事だなと思いました。

例えば、ユダヤ人に対する迫害

これは、ユダヤ人であると言うだけで

誰であっても迫害されると言う状況。

ナチスドイツの収容所の悲劇が思い出されます。

個人が何も悪い事をしていなくても、

ユダヤ人であるというカテゴリー分けにより、

悪いイメージと結びつけられることによって

差別に変化してしまう一つの例です。

「名前を付け、レッテル貼りすることによる決めつけ」

これは、非常に簡単で、考える労力を使わずに

判断、識別させる手段にも成り得てしまう。

これは、「〇〇さんは意地悪」という決めつけのように、

個人単位でも、心の中で行われていますが、

集団で同じ思想を共有すると、差別や迫害に繋がります。

いじめと同じ構造です。

そして、戦争を煽る目的で利用された

憎しみを植え付けるための出来事がありました。

それは、ナイラ証言です。

ナイラ証言

「ナイラ」なる女性(当時15歳)が1990年10月10日アメリカ合衆国議会議会人権委員会にて行った。イラクによるクウェート侵攻後、「イラク軍兵士が、クウェートの病院から保育器に入った新生児を取り出して放置し、死に至らしめた。」、その経緯を涙ながらに語ったことで知られる。国際的な反イラク感情とイラクへの批判が高まって無関係に近かったアメリカを中心にイラクへの攻撃支持世論が喚起されることとなる。

証言は裏付けの取れたものと国際的に認知されていたが、クウェート解放以降マスコミが同国内に入り取材が許された結果、「虚偽」の証言であったことが発覚した。~中略~その上、証言自体がイラクから攻撃を受けて劣勢だったクウェート政府とヒル・アンド・ノウルトンによる自由クウェートのための市民運動の反イラク国際世論扇動のために行った広報キャンペーンの一環であったことが判明した。アメリカ合衆国大統領、上院議員や、各国のマスメディアに「証言」は幾度となく引用され、反イラク世論喚起どころか世論の高まりを受けたアメリカ参戦で敵対国イラク壊滅などクウェート政府によるプロパガンダとして大成功であった。この「証言」はアメリカ政府が目的としていた湾岸戦争の火付け役となり、「女性や子供の証言」「現地で現場を見た被害者は嘘をつかない」との人々の根強い思い込みを背景に、弱者側が女性又は子供を利用したプロパガンダの例として引用される。

※プロパガンダとは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図をもった行為のこと。情報戦、心理戦、もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。

Wikipedia 「ナイラ証言」「プロパガンダ」より

過去の出来事から、戦争を起こすために、

人の心理が巧みに利用されてきた

ということが分かります。

このような事ができるのは、

「自己の利益のためなら、

騙しても、人が死んでも良いという思想を持つ人達」

私は、これを悪人だと思いますが、

こういう人達が実権を握っているためだと思います。

人は、楽な方を選びがちな一面があります。

複雑な事実関係よりも、

分かりやすいストーリーを好む傾向や、

「考えるより決めつける方が、余計に考えなくて済む。」

そういう部分に付け込まれています。

人を疑わず信じるという美徳も、

悪人にとっては政治利用の手段となっている。

悪人と言うのは、残念ながら存在していて、

その中には頭の良い人たちもいます。

世の中の支配権を握っている人たちの多くは、

ピラミッドを上がる段階で選別されていくのでしょう。

競争社会を勝ち進み、上位階層の中に行けるのは、

おそらく善人よりも、ずる賢い悪人が多いと考えると、

注意深く見ていく必要性が見えてきます。

日常で垣間見た分断に陥る心理

ノーマスクで行動していると、

たまに電車内で、睨む人がいます。

何をするわけでもなく、

ただ、静かに黙って座っているだけでです。

それは、意外と若い女性だったりします。

私は、違う価値観を持つ人なんだなと思っています。

ほとんどの人達は、睨んだりせず、

静かにいつも通り過ごしています。

自分と違う価値観を持つ人に対しての理解がないと、

人を決めつけてしまうのだなと思います。

世の中には、人と違う行動をしていると言うだけで、

危険視する傾向がある人もいます。

特に、コロナウィルスに対しての恐怖を強く感じている人や

実際に自分や家族がコロナウィルスに感染して

後遺症に苦しんでいたりすると、

「感染対策をきちんとしないなんて、あり得ない。」

という思考になるのかもしれません。

こういう決めつけや思い込みにより、

敵意を抱くことは、

分断を作る材料として利用される可能性があります。

マスクをつけない人に対し、

理解しようとする気持ちを持つことは大切だし、

マスクをつけない人も、

咳が出るときや至近距離で話をするときはマスクをつける等、

恐れている人がいることにも配慮することが、大切だと思います。

そして、お互いに理解し、「それでもOKだよね。」

と受け入れることが大切だと思います。

私がノーマスクでいるのは、

マスク社会が当たり前になることに対して、

表情の見えない社会になっていくことへの違和感があるためです。

だからと言って、恐怖を感じている人に

マスクを取れと言うつもりはありません。

花粉症など必要があって、着けている人もいます。

私が思うのは、

顔は、ある意味その人のシンボルで、

個性が最も現れている部分だという事です。

それが見えないことって、何か寂しいなと。

美醜の問題ではなく、

相手の方を感じ取るための大切な部位。

その一つが顔なのではないかなと。

この社会では、ますます、

個性を出しにくくなってしまうのでしょうかという懸念。

確かに、マスクを着けている方が楽です。

みんなと同じ姿という安心感、表情を読まれない楽さ。

理解できるけれど・・

けれど、顔を出すためには、

自分をさらけ出す勇気みたいなものが

必要になってしまったのか?と、

この社会になってから感じるようになってしまいました。

この変化は、何を意味するのでしょうか?

出すことが当たり前だったのが、当たり前でなくなること。

また1つ、窮屈な中に納まるかのような。

私自身の新型コロナウィルスに対する見方は、

多くのテレビ報道の内容とは異なる認識です。

除菌やアルコール消毒など、

行き過ぎた清潔思想に対する疑問があります。

免疫力を強くするためには、ある程度雑菌に晒されることも

大切なことだと考えています。

ノーマスクだと言うだけで睨みつける人は、

このような考え方についても否定的なのでしょう。

もしくは、違った見方があると言うこと自体が

許せないのかもしれません。

それは、分かりません。

正義なんて、立場が違えば変わってしまうものです。

正義感は、自分が正しいという価値観を基に、

他人を攻撃してしまう、

意外と厄介な感情だったりします。

私自身、気をつけなければと思います。

ノーマスクの人にも、いろいろな考えの人がいます。

中には、マスクをつける人に対して厳しい考えの人もいます。

けれど、お互いの存在を認め合わない限り、

平和に過ごすことはできません。

たとえ、価値観が違っていても、

お互いの心情を理解しようとする心がけが大切だと思います。

情報を識別する能力を養うこと

多くの人が見るようなテレビなどの媒体では、

その影響力の強さから、

様々な流行が作られ、商業利用されてきました。

同時に、前述したプロパガンダにも利用されています。

意図的に思想や世論は誘導されている事実があります。

多くの人が騙されたナイラ証言のように、

嘘がまかり通る状況があります。

ほとんどの人が疑わないです。

報道を疑うと、陰謀論という言葉や、

そんなことあり得ないという思い込みによって、

片付けられたりします。

とても大切な事が、見過ごされています。

信じる信じないは、正しい情報が提供されないままに、

個人に委ねられています。

多くの人は、無意識に情報を取り入れています。

疑問を抱くこともなく、「そうなんだ。」と単純に信じる。

先生の言う事を聴く生徒と同じ、

いつの間にか、テレビは権威になっています。

広められている思想が世の中を良くするような思想で、

真実が公平に報じられているのなら、

もしかしたら問題ないのかもしれません。

(それでも、特定の媒体の影響を強く受ける事には

個人的には抵抗を感じてしまいます。)

けれど、戦争に向かわされていたり、

何かを恐れたり、憎むような考えを植え付けられていたら、

どうでしょうか。

私の周囲では、話す人の多くがプーチンは

とんでもない悪党だと思っています。

その見方は、一方向的なものでないと言い切れるでしょうか。

与えられる情報によって、

人の思想は左右されるということが、

この一点からでも感じ取れます。

そして、プーチンについて違う見方もあるという

話をする人は、ほぼ皆無です。

恐れや憎しみは、何を生み出すでしょうか。

世の中に流れるニュースのほとんどが、

怒りや悲しみや恐怖を生み出すような内容です。

辛い現実に目を向けることは大切ではありますが、

その中に嘘が混じっていたら、

こんなくだらないことはありません。

報道内容は、本当に中立でしょうか。

ウクライナへの支援は、戦争を長引かせていないでしょうか。

NATOのしていることは正しいのでしょうか。

言われるままに信じる事よりも、

自分なりに考えることが必要なのだろうと思います。

違うから良い。大きな視野で考える事。

本来、人は違って当たり前で、

それが楽しさや面白さでもあります。

似ている者はあっても、同じではない。

その違いが、可能性を生み出し、発展に繋がる。

そんな気がします。

独特のアイデアが、世界を創造していく。

好みも性格も違うからこそ、

何か不思議な法則でうまく行くようになっている。

何かの思想に染められて同じようにならなくて良いし、

個性的な存在であるということを、

自分自身でも、お互い同士でも認め合い、

時に、違いを楽しみながら、

時に、意見を交わしながら

お互いを知り、

そんな考え方もあったのだねと、

刺激を受けたり、与えたりしながら、

自分なりの考え方を形成していくこと。

そのために、本を読んだり、歴史を調べたり、

実験したり、体験したりすること。

生活に影響するような、

社会的に重要な出来事については、

知る努力をすること。

こういう一人一人の小さな考え方の変化が、

社会を変容していくのではないかなと、

考えています。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする